Пустой аквариум

 どこまでも直線を目指してまっすぐに。

 その一途な推進力は人の命を、時にあっさりと引き裂きぶちまけて、時に多大な傷跡を残すものの命を奪いはしない。
そこを分ける線は加害者の能力(幸運)か、それとも被害者の幸(悪)運か。

 元より人を殺傷するために、人によって作られたその武器が放つ攻撃の前に、肉の塊も鉄の塊も無力。

 切り取り拡大された世界の中で、三つ並んだ瓶ビールの一つが砕け散る。
スコープがなかったことにした距離は2km。それを煙草を咥えて眺めていた赤毛の青年ニキがその眠たそうな瞼を少しだけ持ち上げる。関心。

「ほら、どうだ。すげえだろう」

 VRグラスを被って世界を見ながら隣のハッカーが鼻を鳴らし、胸を張る。
「2kmだぞ、2km。お前だって当たらねえだろ?」

 ふふん、と薄い胸板を張る茜にニキはその何も写していなさそうな目を向ける。
「オリンピックかよ」

 その返答はイエス。茜が半分しか見えない顔で満面の笑みを浮かべ、
「でも真ん中狙ったんだけどな。その隣に当たっちまった。誤差修正が足りないか」
 唇をへの字に曲げた。ハッカーとは完璧主義者が多いものなのか、誤差の原因を計算し直す。

 二人が居るのはゴーストタウンの廃ビルの屋上、忘れられた電光掲示板の下。吹き抜ける風は冷たい。
ニキの指が伸びる。掴んだのは近くに置いたままの瓶ビール。煙草を持ったまま、眺める。茜のVRグラスから伸びるコードが繋がる狙撃銃XTG-170108。そのスコープからの映像を見た茜が、手元のラップトップを介して放った弾丸は2km先の的を当てた。よく行く銃砲店の店主が面白いものが入ったと言い、興味を持った茜に買わされたそれ。ニキ自体は茜のようにハッキングが出来る程のITスキルを持ち合わせていないので、それが凄いものなのかどうなのかはわからないが、隣のハッカーが喜んでいるところを見ると、(まあ、すげーんだろうな)。

「で、どう使うんだ?」

 疑問。Wi-Fi経由でも可能ということだったが、だからそれが何なのか、というアナログ思考。

「どうって、これだけ当たるんだったら、トラップとして仕掛けておくとか?」

「そこまで標的を連れてくんのか」

「面倒だな」
 確かにそうだと、茜が考える。「じゃあ、待ち合わせ場所を指定して、先にこれを仕掛けておいて」

「それ、必要なんだろ?」ニキが茜が被るVRグラスを指差す。「ばればれじゃねーの。隣の部屋とかに隠れんのか?」

「そうだなー。それで」

「これは設置してから移動して?」

「……面倒だな」

「面倒だろ」

「待ち伏せするなら行けるんじゃねえか? 相手のパターンを調べて、よく通るところに設置しておいて、部屋でぬくぬくしながら待ってれば良くね?」

「終わったら取りに来るんだろ?」

「そりゃあ、行くよな」

「どうせ行くんだったら、終わらせた時に回収した方がはやくねー?」

 ニキの眉間に寄った皺が言うのは――これ、使えなくね?

 茜は「ぐぬぬ」と唸る。「でもお前にできんのかよ」

「んなもん無理に決まってるだろ。キロとか、そんなんできんのフローちゃんぐらいだろ」

「お前、毎回怒られるのにその呼び方変えねえな」

「こっちのが面白い」

「その態度でこの間、リチャード先生にも怒られたろ」

「あいつ強えーんだよな。弾、当たるかな?
 あそこ潰すなら、フローちゃんと先生を狙うより、マオだろ。あいつがボスだ」

 その口が笑っている。愉しげに。見つけた蝶の羽をもぐ子供の笑顔はきっとこれだ、と茜は思うが、自分も似たような顔をしているのだろうとも思う。自分の顔が笑っているのを感じる。

「トカゲさん家のボスはフィクサーだろ。金払いのいいクライアントなんだから、あんまりからかってやるなよ。いつか」

(死ぬぞ)それを口に出せない。その権限を自分は持たないと茜は飲み込んだ。それはそれで見てみたいという欲求を否定できない。その死体に触れてみたら、どんな感触なのか、その死んだ肌を指で撫でてみたい――病んでいるのは自覚した上で、それを否定しない相手もまた壊れているのだろう。自分の理想が形になって、そこに温度を持って存在している事自体、まるきり夢のような話だといえるのだから。

 草原の丘でピクニックでもしているように、ライフルを肴に、廃ビルの屋上で酒と煙草を転がして。

(こいつの脳みそと直結できたらいいんだ)

 VRグラスから伸びるコードを指でなぞった。アカウントとパスワードがあれば――人体には存在しない。

「で、どうすんだコレ?」

 瓶ビールに口をつけたまま、ニキが茜を見たので、茜の思考ゲームは落ちた。

「どうするって――、どうする?」

 茜の関心は新しい玩具で何が出来るかであって、どうするか、ではない。アプリの中身に興味があっても、運用には興味がない。ニキの半眼が向けられる。目の前に馬鹿がいる、という目。

「……返品できるかな」

「無理だろ。そういう店じゃねぇーし」

 クーリングオフなどの消費者の権利は保証しない/何があっても顧客の情報をどこにも漏らさない――そういう店。

「――――いくらしたんだっけ?」

 VRグラスを持ち上げて頭に載せた茜が恐る恐る訊く。新しい玩具に興奮して舞い上がった茜はうきうきでそれを持ち帰った記憶しかない。値段を見た記憶と、支払った記憶もない。

 事も無げにニキが言う。「ZERO」

「はっ、タダ!?」

「いや、持ち金が」

「はっ、ゼロ!? 何でお前それさらっと払ったよ!?」

「お前がブツ持って店出るからだ」

 ぐうっ、と茜が苦鳴を漏らして頭を抱えるのを他所に、ニキの指がライフルに伸びる。アナログな人間にとって、そのデジタルな機能がどう有効なのかわからないが。

「お前なn」

 顔を上げて、茜は口を閉じる。咥え煙草のまま、その指がギリギリまで削られた鉄を滑っていく様から目が離せない。抑える手も、支える腕も、そのどちらにも走る刺墨も、その上に走る新旧の傷跡も、目に掛かる赤い髪も、その安っぽいプラスチックのような目がスコープを覗く横顔も――その口元が小さく笑っている。

 新しい玩具に興味を持ったのは自分だけではなかった。

 その配線が自分の頭の上のVRグラスに繋がっている。慌てて茜はそれを装着し直す。視界がスコープから見えた物に切り替わる。(今同じものを見てるわけだ)自分の意思ではなく調整に動く視界への違和感に、茜の胸が高鳴る。手元はラップトップの上にある。地図、高低表、天気の情報を呼び出せて重ねる――仮想と現実が混ざり合う。VRモニターにくるくるとデータが重なる。2km先のビルの上に置いたビール瓶2つ。ニキの指が引き金にかかった情報も茜の視界に重なる。自分のものではなく、他人のタイミングで弾かれる引き金。放たれた弾丸はビール瓶に当たらず、その後の壁に撃ち込まれた。

「惜しい」茜が言った。そして思いつく。「なあ、もう一回」

「当たるわけねえだろ」

「次は当たるかもしれないだろ」

 茜の指がラップトップを跳ねる。それを横目に、ニキが再度、スコープを覗く。狙う。今の感覚に、感覚で修正を加えていると、それに何か違和感を感じる。

「何してんだ」

 ニキが問えば、茜が笑う。「面白そうなこと♪」

 いつものことだとニキは相手にしないことにしたのだろう。それ以上返答はなかった。ただ向こうの的を狙う。
(タイミングを合わせるとかしてくれたら楽なのに)思うも、それは茜も口に出さない。(まあ、そこはそれ、というやつで)
 ニキはヘッドホンを着けたままだ。曲は流れていない。茜の指がもう一つのアプリを起動させる。お手製の盗聴アプリ。それから入る音が茜の耳に流れ込む。いつも聞いている呼吸音、心拍。自分だけが知っている癖がある。
(弾く時に小さく息を吐く)

 小さな口笛のように。
 それを合図に修正を送る。
 スコープ/VRグラスの向こうでビール瓶が弾け、中の液体と共に崩れ落ちた。

「「おお」」
 二人、思わず声を出す。

「ひっひっひ」愉快極まりないと茜が妙な笑い声を漏らす。「どうよ、当たったろ。2kmだぞ、2km。当たった、当たった」
 茜の指が宙に踊っている。歓喜。してやったり。やってやったり。カタストロフに表情筋が崩れる。
「どうよ、コレなら使えるんじゃないのか?」

「どうだろうな。有線?」

「無線でも行けるって取説にあったぞ」

「回線通るんなら、お前以外もアクセスできたりすんじゃねえの?」

「ああ……、それはありそうだな。逆にハッキングされたら厄介そう」

「それどこまでガードできんの?」

「うーん。まあ何か考えれば出来るんじゃないかって思うけど、結局これっていたちごっこだからなあ。すぐに次に新しい手を考える奴が出てくるし」

 ぶつぶつと思考を漏らしながら考え込む茜はVRグラスを外して、ラップトップのモニターに目を落とす。そんな茜を横目に、ニキは新しい煙草を咥えると、スコープの向こうが目に入った。

 瓶はもう一つ残っている。

 覗く――先程の違和感が茜の悪戯によるものだとしたら――その違和感を合わせて狙う――弾く。

「ん? なに? 当たった?」

 自分の思考に没頭していた茜が浮上して顔を上げる。返事はなかった。

「え、当たった?」
 茜がグラスを戻す。
 そこに立っているビール瓶はない。先にニキと置いてきたビール瓶。残りはこちらで開けて、その辺りに転がっている。
「マジで?」

「まぐれだろ」

 ニキが言ったので、茜は返す。「まぐれでも当てるとかねえだろ」

「どうせもう当たんねえよ」
 そういうニキにそれ以上の考えも実感もないようで、茜はまぐれの確率を計算しようとして諦めた。数字でどうにもならないモノの方が楽しい。デジタルをこよなく愛しているが、アナログへの愛着も捨てられない。全てがデジタルで済むのなら、数多くある人類の苦悩が半減するかもしれないと思う。どこまでも0と1で白黒を着けた世界に悩みはない。そこに予測外はあるのだろうか。どこまでも予測の内であるのなら、デジタルに意味がないような気がする。

 例えば何気なく書いたペンのインクが紙に溢れるような――そう再現することはできる。ただそれは起こすべくして起こすもので、意図せず起きるものではない。そこに悲劇も喜劇もあるだろうが、観測する側としては、観客としては、思いもよらない出来事の方が面白い。

 茜は笑う。ニキが飲みかけていたビールの瓶を奪う。ついでにその唇に噛み付いてやりたいが、瓶の口に噛み付いた。

「ゴーストさんは、まじ人間ですか?」

 茜にニキが返したのは呆れた声と顔。酔っぱらいを相手にする態度。

 酒に弱くない茜であっても、ニキのペースに合わせて飲めば酔いが回る。「案外、酔っ払ってた方が当たるんじゃねえの?」

「お前はいつも酔ってるようなもんだ」
 ニキの言葉に他意はない。

 茜は酒瓶の口に舌を入れる。
「人生にはアルコールが必要だよな。シラフじゃ生きてけねえよ」

 奪われたニキが他の瓶を開ける。「酔っぱらいめ」

 奪った茜は素知らぬ顔。「で、どうするんだ? コレ」

「まあ、悪くないんじゃないか。デジタル系は外すけど」

「意味ねえじゃんそれ」

「邪魔」

「今さっき当たったじゃん」

「お前が当てたんだろ」

 ダラダラと日曜日の真っ昼間に、捨てられた区画で捨てられた建物の屋上で、人を殺す玩具で遊びながらの、酒と煙草と。平和と呼ぶには殺伐としているが、幸福と呼ぶには気恥ずかしい。茜が話題を変える。

「つーか、スカピンでどうすんだよ」

「別に、珍しいことでもねーじゃん」

「そりゃそうだけど……それもどうなんだ?」

 茜が呆れる。確かに別に珍しいことでもない。この男は物や金に対する執着がおかしい。社会性が損なわれていることは人の事を言えないので言わないが。

「お前何にステ振りして来たんだよ」

「何の話してんだ?」

 ニキがヘッドホンを外して首にかけたので、茜はビールを舐めながら笑う。そうしている時は彼が自分の方を向いてくる確率が高くなる。本人にしてみれば、煩くなって外した以上の意味はないだろう。

「お前もうちょっと慣れろよ。何か不満あるなら、言えよ、直すから」

「よくお前ら平気だな」

 耳を掻きながら、ニキが言うので、茜は肩を竦めた。

「オレはお前ののがわかんねーよ。何、ノイズとか煩いわけ?」

 訊いてみたものの、返答がない。茜は軽く首を傾げる。何と言ったものか思いつかないらしく、ニキは眉間に皺を寄せている。

「頭いてーんだよ」

「それはどうにもならんけど、慣れたら平気になったりしねぇの?」

 度の強い眼鏡をずっとかけているようなものだろうか、と思うも想像の域を出ない上に、医療的には素人なので断言はできないのだが。

「どうせなら、きっちり診てもらったらどうなんだよ。したらオレのアップグレードがアップグレードするぞ?」

「面倒だな」

「お前の病院嫌いは筋金入りだなァ。何回命拾いしてるんだか」
 茜の苦笑をニキは見ていない。それでいいと茜は思う。

――オレが見てる。

 茜は空にした瓶を置き、茜は立ち上がる。
「今日はいい天気だなー。海でも行こうぜ。海岸線、バイクで飛ばすの、気持ちいいぜ、きっと」

「一人でいけよ」

 返答はいつも通り。ここからゴネてゴネて、思い通りにするのもいつもの事。

Я шел.

お前は猫か。
そう言われることがないわけではないし、煙と何とかはと言われることが無いわけでもないが、つい、何となく、特に理由もなく、
彼はよく屋上や、非常階段、閉鎖された箇所であっても特に気にせず、本来であれば人が歩きはしない場所に居る。
別段一目を避けているわけでもない(避ける場合もあるわけだが)、気が向けば何となく街の上の方に。癖のようなものだった。
下に広がっていく迷路のような路地の間を上から移動していくか、その片隅に腰を下ろして煙草をふかして、それを残していなくなる。もちろん用があれば下の道を歩く。
彼にとって――他人に取っては通路ではない道も――ただの通り道で、故に「猫か」「煙か」「馬鹿か」と言われる理由の1つであり、面倒事に巻き込まれた際に逃げるルートの多さとも言える。
単純に上の方が風が気持ちいいのと、単純に下に広がる迷路のような町並みを眺めているのと、立ち並ぶビルの風景が何となく面白いというだけの理由で、彼は屋上の縁などにいたりする。見知らぬ人間が見れば、すわ身投げかと思うような位置に。

下を歩いている人々はまず上を見ない。
上下に対して人の視線はあまり動かないようで、上を――ビルとビルの間を人間が飛び越えても――まず彼らは目の前だけを見ている。それは当然で上から落ちてきたものを(例えば誰かが手を滑らせた窓際の花瓶を)避けろという方が無理な話だ。
そんな有るような無いような理由の元、彼はよくそんな場所にいる。
何故、と問われたら答えられない程度の感覚で、上を移動していく。

下を時折知り合いが目に入る。

緑色の頭にサングラス、カジュアルな服装、その横の黒髪の長髪、黒いスーツ、青いビニール傘。彼らは何やら言い争いながらも道を別れる事なく同じ方向に歩いて行く。その向こうに2人を目指して手を降って走ってくる子供(白い髪、レインコート、中折れ帽)の姿が見える。3人は合流するとやはり同じ方向に歩いて行った。

ひょろりと長い背筋、黒短髪に黒い服、頬に銃痕を貼り付けた青年はその腕を横の色味の薄い男の肩に回し、短く切り込んでツンと立たせている灰かぶりのブロンドを乱暴に撫で回しながら、凭れ掛かりつつ歩いて行く。方向は灰ブロンドのフラットの方向であるようだ。その腕に紙袋が抱かれているので彼の作る夕飯を集るのだろう。

路地裏の真ん中を歩く人影は、眼帯に悪趣味な派手なシャツ、今日日TVドラマでもお目にかかれないような絵に書いたようなチンピラのような男。大股で歩き、銜えていた葉巻を投げ捨てて、男は不意に何かに気づいたように走り出した。その背中を見送って位置を変えれば通りのカフェのテラス席で上等な服装、黒髪をポニーテールにして腰まで垂らしている女が機嫌悪そうに腕時計を見ている。机の上に置かれていた黄色い熊のぬいぐるみの頬を指で突いて溜息をついている風に見えた。

ショッピング区画では、短い髪を撫で付けた目つきが悪くカジュアルな服装が似合わない男と、その腕にしがみつき、抱っこ紐の中の子供に笑いかけている、黒髪に勝ち気な紫目の少女のような母を中心にした親子連れが玩具屋の前で談笑している。

横断歩道で紙袋を抱きかかえた金髪にサングラスをした体格の良い男。横断歩道を渡る老婆の手助けをしているお人好し。

高級ブティックが立ち並ぶ区画で見かけたいかにもな色男といかにもなグラマーな美女が紙袋を片手に絡み合ったままリムジンに乗り込んで行く。

走りだしたリムジン、その後に滑りこんできたリムジンから降り立った秘書らしきスーツの女、ドアが開けられてから降りてきた白い長い髪が流れる先の指に誘われて降車したのは黒い髪の少女。

オフィス街ではタクシーから降りた黒髪を撫で付けた人の良さそうな笑みを湛えた嫌味にならないが安物ではないスーツに身を包んだヒスパニック系の青年。その横に立ったサングラスの男だけがこちらに気づいて視線を寄越した。

背の高い短髪で体格の良い青年が前を見えないほど紙袋を抱えて、前を歩く痩せた山羊のような男の後を着いてゆく。気づけば前を行っていた男は違う店にふらりとした足取りで入ってしま、一瞬見失っって辺りを見回してから店内に後を追う。

路地裏のバスケットコートで赤い髪の少年は鉄パイプを振り上げて至極楽しそうに喧嘩の相手を叩きのめす。

ゴミ箱の裏から黒猫を抱き上げた幸薄そうな東洋人の少年。銜えていたキャンディーの棒をその猫に奪われて慌て追いかけていく。

その猫を抱きとめた短い金髪にラフな格好をした少年のような少女のような人間が楽しげに猫の口から飴玉を奪う。

その先、とりわけ治安の悪い地域の片隅で運悪く柄の悪い人間に絡まれている風の金髪の青年は先の少年のような少女のような人物と兄弟のように見えた。本気を出せば一撃である筈なのにまずは話し合いでどうにかしようとしているようだった。仕事で出歩いていたのではないので、長距離は勿論、中距離の獲物も持ちあわせていない。足元に落ちていた空き缶。それを投げた。位置エネルギーを加えて落下して来た缶にノックダウンされて治療対象者が増えた事に顔を上げた先にはただビルの直線と角しか見えない。

 

いつものように何となく、そんな高い位置に居た時、時刻はそろそろ夕刻に差し掛かり、沈んでいく夕日の光にビル群が射られ、長い陰が更に長く街に張り付いて行く。
街は夜に飲まれ、また違う顔を見せる。
切り絵のようになる瞬間、見上げた空を家路に着いたのか烏が羽を落として飛び去っていった。

Own Locks

「オレからアドバイスがあるとしたら」
自分の秘密基地の場所をばらすように茜は口元に人差し指を立てた。
「あいつのことはくらげと一緒だと思えばいいよ」

くらげ、と言われてまず思い浮かぶのは海に浮かんでいるあれだ。
その次に、共通の知り合いの子供思い出す。白く柔らかい髪に白く柔らかい肌、海のような青い目に、ビニールカッパと水鉄砲、ポークパイハットに白の半袖シャツ、マゼンタの濃いピンク色のネクタイ、黒の半ズボンをサスペンダーで吊って、白い膝小僧の下に長靴という独特のドレスコード。
茶目っ気たっぷりの笑顔で路地裏を駆け抜けていき、社会的には危険人物な大人たちと渡り歩く子供の名前はくらげ。
それと同じに思えばいいとはどういう意味だろうか、とリチャードは少しだけ眉根を寄せて目を細めた。

 

事務用の椅子に膝を抱えて体育座りをしたまま茜はモニターを眺めている。それはいつも通りの習慣そのものだった。いつもと違う点は、そこが自分の部屋(当然のように居着いているニキの部屋)ではなく、同じくモニターを眺めている人間が横にいるという点。見ている対象はいつもと同じニキと、いつもと違う対象はフィクサー。

(いや、こっちは『フローレンス』か……)

米国で確固たる地位を確立し、英国の後ろ盾を持つ組織の頭領が保護室の片隅で膝を抱えている様は想像していなかったが、その原因の一因が自分にあると気づいてしまうと、茜はさすがに不憫になってきて、病院内の自販機で買ってきたカップのコーラをちびりと舐めた。横で同じく事務用の椅子に腰掛けてモニターを見つめている青年の横がを見やる。
そこにいるのはリチャード・ソーン。フィクサーの恋人であり、カウンセラーである。この病院のルーキーとして将来を嘱望もされている、有能でまっとうな青年が暗黒街の一角に葉巻を咥えて猫を膝に乗せて尊大にふんぞり返ってプレジデントチェアにでも座っていそうな一マフィアのボスとそんな関係になっているのは不思議にも思うが、それは別の物語だろうと思考を変える。

コーラは炭酸が抜けだしていて、少しばかり温くなってきていて、挙句氷が溶け出していて、コーラだったものになりつつあるが、それもそれ。気にせず茜は飲み込んだ。

幾つか並ぶモニターは精神病院の患者の動向を確認する為につけられた物で。

「なあ、先生」

茜は落ちてきた前髪を再び持ち上げて結び直す。
何です?という顔を向けてきたリチャードに茜。
「後でいいんだけど、フィクサーに伝言があるんだけど、頼んでいい?」
「構いませんけど、何です?」
「すげぇ簡単なこと。だけどオレが言ってもあんまり効果ないかもしれないからさ」

リチャードの疑問符に茜は口元に指をあてて告げた。

「? どういう意味です?」
「まんまの意味さ」
茜はさも楽しげにモニターを眺めながら、椅子に腰掛け直して頭の後ろで指を組み合わせた。リチャードがニキから取り上げた携帯端末のロックを解除する。ニキがやりかけていたゲームが復活するが時間切れでゲームオーバーの画面に切り替わる。その得点に茜は吹いてから、自分の服のポケットにそれを流しこむ。
リチャードも自販機で買ってきたコーラを飲みながら、茜の次の句を待つ。
茜がにやにやと意地悪く笑いながら眺めている先のモニターにはニキが写っている。暴れる可能性がある患者の安全と、周りの人間の安全を確保する為に作られた保護室の中で、クッションだらけの壁に囲まれて、物珍しそうに足元を確かめている様子を見ながら、茜は笑う。

「あいつはただの馬鹿なガキだよ」

気づいてしまえば酷く簡単な事なのだ。
茜の言わんとしている事を飲み込み切れなかったリチャードはカップに口をつけたままだ。
茜が空になったカップを銜えながら器用に解説を加える。

「せんせーさ、くらげちゃんが病院の廊下走り抜けて、止まれなくてワゴンに突っ込んだらどう思う?」

「どう……って、『あーもう、しょうがないなー』とか、『だから走っちゃダメだって言ったのにー』とかかな?」

「だしょ?」と口から落としたカップを受け取って、茜。「それと同じって言うとまあそれはそれで問題あるんだろうけど、くらげちゃんに悪いし、くらげちゃんは馬鹿じゃねぇしな。でもまあ、そんな感じだよ」

茜の楽しそうな目がモニターを一瞥する。保護室の中をうろついているニキと、隅で膝を抱えているフローレンスを交互に見てから、呼気に吐息を小さく混ぜた。

「まあ、アレさー。なんてえの? せんせーならもうわかってっかもしんねーけど、オレが言うのも変なんだけどさ」
上手い言い回しはを探して、茜の指が紙コップの縁をなぞる。あの保護室のプロテクトを解除するコードなら3分と掛からずに書けるというのに、対人になると少々(大分)勝手が違う。言葉を探す――
「Er nicht normal aufwachsen.」
言葉を探しすぎてドイツ語になってしまった。
(やっべ)と思ったのには二通りの理由。
理由1.別段バレて困るわけではないが、出自に関する情報である事。
理由2.単純に通じねえじゃん、という事。
でもまあ、と思い直す。相手は優秀で有能な医師である。

「まあ、それはそうだろうけど」
茜の言わんとしたことを理解したリチャードが苦笑した。
「普通に育ったら、ああはなりませんよ」

「まぁ、なんてーの? 専門家に言う程ってか何だけどさ、なあ? 釈迦に説法っつーかさ、だけどさ? 気にすることねぇんだよ。アイツは何かこう、人が普通にコミュニケーションを取ってやりやってくる程度の事とか、そーゆーのをすっぽかして来てる残念な奴だからさ。人の気持ちとかそういうのわっかんねー、その辺のちびっ子とかわんねぇから、気にすることねぇんだよな、フィクサーもさ」

「そうは言ってもねえ……。
フローも、頭ではわかってるんだろうけど、中々難しいんだよね」

専門家を前に何を言ってるだろうと、気恥ずかしさが湧いてきて、茜が空になった紙コップの縁を噛む。
目の端でフィクサーことフローレンスを見る。なんだかあんまりにも可哀想な気がしたのと、カードの相性が悪すぎる事に、観客として面白くなさを感じたのと、
単純な嫌がらせから、

「じゃあ、もっと簡単な方法。せんせーだけに教えてやるよ」
今度こそ、秘密の技を教える悪童じみて、茜はリチャードに囁いた。
「この裏ワザはお兄ちゃんミゲルも知らないんだぜ」

後日。
仕事帰り、スーパーマーケットで買ってきた夕飯を入れた紙袋を片手に抱えて、リチャード・ソーンは帰り道を歩いていた。
紛うことなき一般人の帰り道姿と言った様から、彼がどこぞのマフィアのボスを保護室に放り込める度胸と器量と実力を持っているとは伺い知れない。
と、フェンスの横を歩いていて聞こえた日常的ではない音に首を巡らせる。上を走る高架、それを支えるコンクリートの壁はストリートアートのキャンバスと化し、侵入者を除外しようと建てられたフェンスを嘲笑っている。その合間。見える人影。複数。遠目に見える動きから喧嘩だと知れる。一般人たるリチャードは早々に立ち去るべきであるが、ソーン医師は怪我人がいるかもしれない状況を看過するのを良しとしなかったので、足を止めて、怪訝な表情を浮かべて見せた。
足を止めてみれば、複数対単体というのがわかった。そして、その内の一人に見覚えがある。できれば恋人に近づいて欲しくない人間。遠目にも鮮やかな赤い髪。ため息を吐きたい気持ちに、彼の保護者然としているヒスパニックの弁護士の事を思う。
ただの喧嘩ならいいか、と思う。見ている限りでは――本格的な訓練を受けた人間から見れば――ただの喧嘩に見えた。人を殺す事を目的とした格闘術の気配はない。だから少し見守ってしまう。殴り殴られ、蹴り蹴り飛ばし、よくある街角の喧嘩――

(あ)

と、そこでリチャードは紙袋を落とした。落とした拍子にスパークリングウォーターの瓶が割れて広げる泡立つ水たまりを他所に走りだす。

勝杯はニキに傾いているようだった。
ニキの膝が相手の顎を打ち抜いて、横から食らったタックルの主に対して肘を脳天へと落とす。崩れて落ちていった男の顔に脛を叩き込み、後ろから振り下ろされたガラス瓶に一瞬意識を手放すも、振り返り様に後ろにいた男の首元の中指を尖らせて握りこんだ拳を遠慮も躊躇も、手加減の類も何もなく全力で。
くぐもったうめき声は彼の鼓膜を揺らさない。飛び散った血に向ける視線もない。非情とは違う。単純で純粋なる無関心。
他人を傷つけることに呵責を覚える良心の不在。善悪の無さは子供の無邪気さに似ているとも言えなくはない。ただそれは子供が持つが故に――自身の行動からの結果を予測できない、暴力とも呼べない脆弱な腕力だからこそ許されるのであって、
それをそのままにして来たということは、殺意もなく人を殺せるということであって。

ニキは周りに崩れ落ちた相手達の真ん中に立ち、鼻血を服の袖で拭う。口の中に溜まった血と唾液を吐き捨てて、最後に残っていた敵にうっすらと微笑んでみせる。リチャードの位置からも見えたそれは、見つけた綺麗な蝶の羽を毟る子供のそれに見えた。通常であれば、それは駄目だと親なり大人に教えられるのだ。

『そーゆーのをすっぽかして来てる残念な奴だからさ』

先日の茜の言葉を思い出す。それを茜は楽しげに語ってみせた。
蝶の羽を毟る様を茜は楽しげに眺めているようにも思えた。

先日、茜に教えられた裏ワザを思い出す。
半信半疑であったが、躊躇している余裕はないが、力づくで止めるには距離がある。

対してニキはリチャードの登場にまだ気づいていない。彼とリチャードの間にはまだ立っている人間がいた。その敵に向かい、ニキが地面を蹴飛ばす。躊躇なく、頭部を狙う蹴り。よろめいた相手に対して追撃の大勢に、リチャードが叫んだ。

「――ニキ!!!」

出しうる限りの大声で叫べば、呼んだ先の視線がこちらへ流れた。一瞬だけ、目が合った。微笑われた。辞めろと言いたいのは通じたようだが、辞める気もないようだった。楽しい遊びの最中に入った遠い茶々だと、彼は気にしていない。
その態度にリチャードの温厚のマスキングが剥がれる。王者たる威厳を握りしめたまま、息を吸い込んで、腹から怒鳴る。

「――めっ!!!」

叫んでから、沸騰した羞恥がリチャードの頬を染めたが、効果はあったようで、きょとんとしたニキは止めを刺そうとした体制で止まっている。
(……ホントに効いたよ、茜さん……)
呆れながら、自分の恥ずかしさも合わせて咳払いで払うと、リチャードはつかつかとニキに近づいて、その襟首を掴んで、ぺいっ、と脇に投げ捨てた。
「は?」
今更、そんな声を上げたニキに対し、リチャードは、今になってこみ上げてくる笑いを噛み殺す為に表情筋を必死に駆使しながら、真面目ぶって告げる。
「ニキくんはそこでじっとしてなさい。やり過ぎです」
不満そうな彼に対し、
「ダメです。そこまでです。めっです」
ちえー、と詰まらなさそうなニキだったが、確かに効果はあるようで、てきぱきとリチャードは辺りで転がって呻いている怪我人を診る。死人は出ていなかった。その事に安堵して、次いで遅れてきた驚愕と、復活した笑いたい欲求に、腹筋に力を込めながら、リチャードは肩にかけていた鞄から応急処置用の医療キットを取り出して簡単な手当をし、やはり一抹の不安が残るので911に連絡した次いで、(やっぱり、こういうのは『お兄ちゃん』にお願いしよう)そこにしゃがんだままのニキに顔を向け、笑顔で携帯電話を耳にあて、
「――あ、ミゲルさんですか?」
逃げようとしたニキの襟首を素早く掴んで、状況を告げ、デジタルにも伝わる怒気にひび割れた「YES」を聞いて、通話を終える。
げんなりとした様子のニキにリチャードは100%善意でマスキングした笑顔で応える。

「じゃ、ミゲルさんが来るまでの間に、ニキくんの怪我を診ましょうね」

茜曰く。
「ガタガタ御託並べるより、名前呼んで『メッ』って言った方が通じるんだよ、あいつ」
「――め?」
「日本語で、『NO』の単略語? まあ、そんな感じ。犬猫にダメ!って言うノリで。内緒だけどな」
しーっ、と指を立てて茜は片目を瞑ってみせた。

“Own Locks“ based on One’s Looks written by Yomo.
thanks, Hemu, Ramuta, Istura, and Yomo.
BGM Nano “Born to be”.

茜ちゃんの懊悩

何でもない平日に何でもない日常に埋没する街の片隅で、茜は不満に頬を赤らめたまま、行きつけのカフェの奥の席でカフェラテを横に置き、ラップトップにその苛立ちを叩きつけていた。
傍から見ればノマドワーカーが何やら仕事に追われているように見えなくもない。
平日の午後。
客もまばらな店内には他にも似たような姿がある。

苛立ちの原因はとても日常的なものだった。

酷く単純で、誰もが悩んだことがあるような、そんなありふれたテーマだった。
茜の仕事がら頭から煙を出す程悩むことといえば、仕事に関することが多い。頭脳労働者である茜の仕事はハッカーであり、脳細胞と指先とモニターを流れていく文字列に対する動体視力とを駆使して、企業や政治家や知識人や頼まれればその辺りで転がっているだけに見える浮浪者であっても、彼らの隠したものを探し当てる。
大半は趣味の延長であるのだが、故にハッカー同士の戦いになると疲弊する。
彼らのこだわりは精密機械じみていて、そこに人間のユーモアとブラックジョークを含んでいる。
長時間チェスをやっているようなものだ。
相手の手を読み、それに布石を置き、罠をかけ誘導し、相手のロジックキングを打ち破る。
彼らハッカーの中でも栄光として語られる、軍事衛星へのハッキングや国防総省への潜入を成し遂げる腕を持っている茜の全力を持ってしても思い通りに行かないのが、いわゆる『アナログ』である。

暇つぶしにチラリと目をやったサイトの記事には自分が送ったメールに対する返事から恋人がどのように自分を思っているのか、というくだらないものだった。
ただ、それが返事が返ってくるのが前提である、という点が茜にとって面白くない。

「返ってくるだけいいじゃねぇか」

思わず吐き捨て、WEBサイトにControlとWを同時押す。

ニキに送ったメールが返ってきたことはあっただろうか、そんなレベルで考えこむ。
そもそもこの時代にあってして、あの男はアナログな節がある。
携帯電話を持ち歩かせるのも一苦労であるし、未だ旧式の音楽端末を使っている。
世の中、スマホにBluetoothにタッチパネルが前提であるというのに。
そんな相手にメールを送ったところで返ってきたことはあっただろうか。
数えるくらいはあったような気がしても、明確に思い出せない。
今度返ってきたらきっちりクラウドに保存しておこうと思う。
どうせくだらない内容だろうが、そんなことはコレクションに関係がない。
他人にとってどれだけ意味がないものでも、コレクターにとっては至上の価値を誇るものなのだ。

現に今もPCから送ったメールに返事はない。
カフェにいるので、一緒に飯でもどうだと友好的な内容なのにも関わらず。
ニキに着けた盗聴器を作動させてみるも、聞こえたのはノイズだけだ。今回は潰されたらしい。

(次はもっと違うところに着けるか……でも今回は簡単過ぎたから……そろそろ体内に仕込んで――でも表面からちょっと下なら怪我すりゃ終わりだし、だからってもっと奥に仕込むにはオレの腕じゃな……あー、ネットとか脳みそに直結してぇ)

舌打ちをひとつして、茜はカフェラテを喉に流し込んだ。
キーボードを茜の指が滑らかに高速で叩く。
開いたウインドウに映しだされるのは自分(ニキ)の住むアパートの室内だ。
角度を変えて見たところで、目的の人影は見つからなかった。
出かけているのか。となると街中の監視カメラにハッキングをするには今持っているラップトップでは少々心もとない。
どこにいるか考えるものの、相手の出没範囲は思いの外広い。
徒歩ならまだしもバイクであったなら尚の事だ。
ふらりと出かけてそのまま数日帰ってこないこともざらにある。
あまりに続くようなら何かあったと動くのだが、昨日今日の今であれば動くのは少々――ミゲルおにいちゃんにすら過保護だと言われてしまうかもしれない。
心配とは違う。
自分の預かり知らぬところで何かが起きるのが気に入らない。
意外だと言われるかもしれないが、正直死んだとしてもそれはいい。
ただそこを自分が観ていられないのが嫌なのだ。
ずっとずっとリアルタイムに観て、録画して、毎週毎週楽しみにしていたドラマの最終回だけを見逃すような失態は冒したくない。

恋する乙女の暴走とは一味違う。

公言して憚らないが茜はニキのストーカーである。

半分以上は見せて貰っている感がある。
だからもし彼が本気で拒絶してきたのなら、もう観てもいられないかもしれない。
それを不安と呼ぶなら確かに不安であったものの、正常な男女関係であるかと言えば別の話。

自分が執着している程、向こうは自分に執着していないのではないのか、というものを不安と呼んでよいものか。
それは単に現実逃避というやつではなかろうか。そもそも全く興味がないのではなかろうか。
好きとか嫌いとかそういう以前にまずどう認識されているのかを確かめたことがない。
まるきり独り善がり――独り善がることもできていないのではないか。
だったら初めからただのストーカーに徹していればよかったのではないか。
そもそも勢い余って突撃していたものの、相手が自分を見てくるとは全く想定していなかったのだ。
ただ観ていれば満足だったのに、不意打ちで向こうがこちらに気がついた。
晴天の霹靂とはまさにこの事だ。
今でも時折自分の勘違いであったのではないかと思ってしまう。まさに今もそうだった。
ただの勘違いであって、向こうは自分を見ていなかったのではないか。
アイドルのコンサートに行ったファンが、自分の方向にアーティストが顔を向けたのを『目が合った』と思い込むように。

酷く不毛なこの関係を恋と呼んでよいものか。

自分が惚れていることは覆せない事実である。
巷の監視カメラをザッピングしていて一瞬映ったそれに釘付けになった。
それはまさに一目惚れ。
恋だ愛だ、そんなものを吹き飛ばした霹靂。
安いカメラのレンズのような緑色の目も、染めているのかと思った鮮やかな赤毛も、幾つもある傷跡と一緒に不健康そうな肌を這う文様タトゥーも。
それらに目と心を奪われた。これを恋と呼ぶものか。

いつか向こうが飽きたなら。

徹底的に拒絶されてしまったなら、観てもいられなくなるかもしれない。

そう考えるとストーカーの心は哀しみに沈んだ。

それは乾いた寂寥感だったかもしれない。
だとしても、諦めるには近くに来過ぎてしまった。

見渡したカフェの中、客足はまばらだった。
時計を見ると二時間程席にいる。
カップの底に張り付いたカフェラテを見て、追加の注文をウエイトレスに頼む。
もう暫くいても冷たい視線にならないようにチップを多めに渡せば、パートタイムジョブの女子高生はそれで笑顔になる。
ニキのボロアパートから歩くと距離があるが、インラインスケートでラップトップを背負って現れる茜は常連であるし、Wi-Fiもあるこのカフェは近所のノマドが集いやすくもあるので、そう冷たい目をされることはないのだが。

上着のポケットに手を入れたら予想外の感触があった。
角と平面。
引っ張り出せばそれはニキの吸っている煙草の箱だった。
腹いせに置きっぱなしだった彼の上着を引っ掛けてきたのだ。
中身は数本減っていただけだったので少しばかり溜飲を下げる。
纏め買いをする習慣を持たない彼は今頃新しく買う羽目になっているはずだ。
机の端に置かれていた、店名が入ったマッチに火を着けて、火先を咥えた煙草の先に近づけ、息を吸う。
火は煙草に引火した。
煙は崩れていく糸のように立ち上がり、天井のファンに掻き回されて消えていく。
頭の後ろに手を組んで、背もたれに思い切り寄りかかる様は、傍から見れば仕事に悩んでいるように見えたが、恋愛に悩んでいるようには見えなかった。
だから遠くの席のノマドワーカーが憐憫の眼差しを向けた事に、茜は気づかない。

それから目を閉じる。
喉を焼く煙。辛い。キツいタールとニコチンと。
いつも彼が纏う匂い。ここに血と消毒液を混ぜればきっと似せた匂いができる。
後は硝煙と――匂いは記憶を呼び覚ます。昨日の夜、ふらりと出かけていったニキは朝にはまだ帰っていなかった。いつものことだ。自分の立場を恋人と言っていいのか、悪いのか。家族でもないのに束縛する理由はなかった。彼がもし、どこかで他の女を抱いていたとしてもそこに嫉妬を感じない。

『人は気づかない内に誰かと家族になっているものなんですよ』

何の話をしていた時の言葉だったか。

知り合いの精神科医の言葉が不意に蘇る。自分はあいつと家族になれるのだろうか。それは酷く儚い夢のように感じられた。まるきり夢物語のようで現実感がない。自分はどうしようもなくしがみつけるのに、向こうはこちらにしがみついてくれるだろうか。

薄っすら目を開く。天井でくるくる、くるくるとファンが回って、茜が立ち上らせる煙草の煙を撹拌させている。

口の先で溜まっていく灰を落として火傷をする前に、それを灰皿へと叩き落とした。灰皿に落ちた灰は何やら自分に似ている様に思えて苦笑いが浮かんだ。

所詮は独りで踊っているに過ぎない。それに相手を求めるのが間違っているのだ。

乾いた達観は乾いた笑みを乾いた唇に煙草のフィルターを貼り付けた。

剥がす時に持っていかれた唇に少しばかりの痛みと少しばかりの血の味。

精神科医なら何というのだろう、と思いだした言葉に繋げて、ぱっと見はなよっちい頼りがいのなさそうな金髪碧眼の彼の職業と絡めて考える。
口にすることはないだろうが、恐らく職業柄、職業病で関わりのある人間のことを多少なりとも診断している筈だ。そんな専門家にしてみれば、一体どのように自分は、彼はどのように写っているのか。

(……ろくなもんでなさそうだ)

茜はPCやネットワークに関してはプロフェッショナルであるが、アナログに関しては素人である。
故にその方面に関しての知識はドラマで見た程度で、二番煎じになりもしない。
故にそんな程度の結論を出す。
WEBサイトを検索してある程度の症状を当てはめて、カテゴリーの名前を見つけることは茜にもできる。
けれどそれで何になるのだろう。
相手の経歴を調べることもできる。
だが、ネットに転がっている『真実』の便りなさを茜は知っている。
真実は、作ることができる。
真実よりも真実らしい嘘を。
事実、ニキに持たせている身分証は茜が偽装したものだ。
そこに真実を混ぜてしまわないように、そして自然に見せる為に、ある程度は茜も調べたことがあるから知ってはいる。
文字の羅列としては。ただそれだけだ。

以前、寝言で、寝ぼけたニキが掴んだ茜の腕に呟いたのは茜の名前ではなかった。

(マリア)

名は茜も知っている。
ニキのタトゥーを彫ったアーティストの名前だ。
その関係が彫師と客だけの関係でないことも知っている。
流れるような金髪に夏の空のような瞳をした、豊満なボディライン――の映像を脳裏に描き、茜はちらりと己の体を見下ろして、今の考えを忘れる。

名前の通り、彼にとっては神様の類なのかもしれない。
その間に入れる等とは思いもしなかった。
ふたりでいる間に何があったのかを茜は知らない。
正しくはそこまで調べきれなかった。
情報があれば調べることは可能だと茜は自意識過剰ではなく事実として思っている。
だが、情報がなければ調べることは不可能だ。
茜が得意とする世界はデジタルであって、アナログではない。
デジタルな画像がWEB上にあれば、それを探すことに難はない。
もし暗号化されていたら手間と時間はかかるかもしれないが、できないことはない。

だが。

どこかの部屋の片隅に落ちている写真がフィルムアナログであったなら、探すことはできない。
0と1に変換されていない情報を探すのは茜の得意分野からかけ離れている。

バカバカしいかもしれないが、それが限界だった。

そう、酷くバカバカしい。

茜の指先で煙草は吸われることなくただ灰に変換されて崩れて落ちた。

フィルターまで燃え出したそれを灰皿に擦りつけて、ウエイトレスが多めのチップのお礼に少し増量して渡してくれたカフェラテを笑顔で受け取って口付ける。
カフェラテの熱は思いの他、唇に染みた。
唇を舐める。血の味。この恋は血の味に似ている、くだらない映画のキャッチコピーのような文言を思いついた。

(いっそ、リチャード先生にカウンセリングでもさせてみようか――)そう思ってみたものの、まあ無駄だろうな、と続けて呟いた。

もしもあれが病気であるのなら、本人に治そうという意思がなければどうにもならないし、聞いたことにしか答えないのであればカウンセリングになりもしない。
意味がない。
ただの尋問か質問にしかならない。
そもそもニキは用がなければ病院に行きたがらない。
用があるであろうレベルの怪我であっても行きたがらないので、時折死にたいのかな、と思うこともある。

(ただの自覚なきドMなのかもしれないけどさ)

そう思い変えてみたところで、自分の命に対して何らかの執着がないのはわかっている。
同じように他人に対する命への執着もない。
自分が死ぬかもしれないことと、人が死ぬかもしれないことに対して同じように意味がないのだ。
それは酷く平等で、この上なく社会性を欠いている。他人への共感も皆無だし、さして関心もない。

(もし、あいつが死んだなら)

そこによく見るような悲哀はない。
あるのは背中をぞくりとさせる感覚だ。
それは性的快楽の方に近い。
きっと綺麗だと思うのだ。
彼の人の死体は。どれだけグロ画像となっていても、そう思う自信があった。
そうしたら自分も壊れていくだろうか。そんな些事を放置しても、その夢想はどちらかと言うと甘美だ。

(あいつにオレはどう映ってるんだろう)

何となく次の煙草に火をつける。
完全に煮詰まっている風のまま、茜はラップトップのモニターがブランクになっていることに気がついて、キーをひとつ押した。モニターに写る映像や文字列は先ほどから変化はない。

まるきり全てが無意味だったのなら、自分がいてもいなくても同じであって、そもそも表情通りにただ迷惑なだけなのではなかろうか。
世界の終わりに気づいてしまったかのような暗澹たる面持ちで茜は俯いた。
傍目には致命的なバグに出会ってしまったIT技術者のようだ。
遠くの席のノマドワーカーが見当違いだったが、憐憫の眼差しを送る。
どこかのSEかデザイナーが無理難題を抱えているのだと、彼はそう同情した。

もういっそ、前のようにただのストーカーに戻ろうか。
そっちの方がお互い幸せかもしれない。
自分は観ていられればいいのだし、向こうも迷惑な存在が消えて楽かもしれない。
だってほら、オレを見る時、時々物凄い冷たい、虫でも見るような目で――
決意を込めて顔を上げた茜は口をあんぐり開けて、銜えていた煙草をポロリと落とした。
それは掌に落ちて、
「あっちい!」
悲鳴と共に火種を振り払い、慌てて床に落ちた煙草を拾う。

驚いたような、泣き出しそうな、笑い出しそうな、複雑な表情のまま茜は、
「なっ、なんだよ!」

いつの間にかそこに両手をポケットに突っ込んだまま――茜が着ているので上着はないまま――つまらなさそうにそこに立っているニキに八つ当たりじみた声を投げる。

なんだよ、の言葉にニキは少しだけいつもの無表情に片眉を持ち上げた。
「来いつったくせに」
じゃ、いーか、と踵を返しかけたニキの服の裾を瞬時に掴んで、
「来ると思わなかったんだよ!」
茜はついさっきまでの『この位置』を手放す気持ちを手放した。

公言して憚らないが、茜はニキのストーカーである。

やはりストーカーであるのなら、最前線で観ていたいと思った。

世間的にはこれは間違っているのは間違いないだろうがそれでも。

側に居たいと思うのは事実であるのだから、わかりやすく拒絶されるまで居座り続けてやろうと決意新たに、メニューを広げる顔は笑顔というにはニヤついている。

「なに、ひでぇ顔してんな?」
「うるせえよ。お前程じゃねえよ」
言って、茜は更に追加を頼むべく、元気よくウエイトレスに手を振った。

“Her thinking of him” written by Xacra.
BGM tacica「某鬣犬」
2015/05/06

GHOST

スコープを覗く、片目を閉じれば円が世界を遮断する。
仕事帰りに飲み明かしても、明日の仕事に響くのを恐れてそろそろ解散に時計を眺める、そんな時刻。
高級ホテルの一室を、空きビルの一室のひび割れた窓の間から垣間見る。

約300m先のプライベート。

サイトの中に標的を探す。7階の角部屋。高そうな部屋――それだけを安物のプラスチックのような目は感想に思う。その部屋を一晩借りるにどれだけのドル札とそれなりのステータスが必要なのかということに興味もなく、不用心に開けられたカーテンの向こうで酒瓶を傾ける、スーツを寛げた男性を眺める。指先はまだトリガーガードの上に。それがどこの誰かということではなく、標的かどうかだけを確認する。

換気の止まった室内の淀んだ湿度と室温にじっとりと汗が頬を伝っていく。

それらは外の世界の出来事だ。照準の外の世界はもはや知覚の外にある。

温度も呼吸も聴覚も嗅覚も全てが外にある。視覚だけが目の前にある。

標的の頭を中心に世界の。指先がトリガーへと伸びる。
指を曲げれば鉛弾が約300mの隔たりをゼロにする。

こちらと言えば微かな衝撃に肩を叩かれるだけだ。

何の前触れもなく弾かれたように振り返った先に見えた、素人にも上等だと知れるオートクチュールのスーツ、絹糸を束ねたような髪色、男か女か判断しにくい長身の人物。

だが銃弾は300m先でなく、目の前で穿たれた。

彼(彼女?)が持つベレッタが硝煙を薄っすら吐き出している。火薬の匂い、それと本人が着けている香水なのか甘い匂い。
「鼠がいると聞いて来てみれば、とんだ野良猫だな」

声を聞いても彼なのか彼女なのかわかりにくい声。
ただしその整った顔の無表情から吐き出されているのはありありとした不快感。

片膝を突き、ライフルを構えたまま、狙撃手は不意の襲撃者を見上げる。
「よー、フローレンス」

その呼び方に、襲撃者の整った眉が持ち上がる。
「その名前を呼ぶなと何度も言っているだろう」

「はいはい、フィクサーサン」

コンクリートに撃ち込まれた鉛弾を吐き出したベレッタはフローレンス――フィクサーの手の中だ。彼の立っている位置と今、狙撃手が腰を下ろしていた位置からして、確実に殺る気はそれほどなかっただろうが、それでも当てる気はあったようだ。
「その体勢から避けられるとは思わなかったぞ」

「前にいちどあったからな」
それは長い黒髪を垂らした日本人サラリーマンのビニール傘での一撃であったけれど。
――あれは避けきれなかった。

「で、なに?おれ忙しーんだけど」

「その忙しさを暇にしてやろうと思ってな。ニキ、貴様が今狙っている男は我々の組織と懇意にしている。今、そのパイプを失うことは少々惜しい。最も次の選挙で落選すれば用はない程度だがな」

「……だから?」

「その依頼はいくらで受けた?倍を出すから手を引けと言っている」

「ほんとおまえセレブだな」

呆れ混じりに思ったことをそのまま言っただけだったのだが、どうにも相性が悪いようでフィクサーが苛立ちに銃口をニキに向け直す。

「嫌なここでそれなりに怪我をしてもらうことになるが、損得を考える頭があるならとっとと失せろ」

「何イライラしてんだよ。2日目かよ」

と、ニキは肩にかけていたライフルの位置を直す。悪くない話だということは彼も理解している。ただゲームの邪魔をされたことは面白くない。その程度の八つ当たりだったのだが、
「……やめた」
突如、フィクサーがボルサリーノハットを脱ぎ、外から差し込んでくる少ない光量の中でも整っている事がわかる顔に笑みを貼り付ける。
「貴様には一度、とことん痛い目を見せておいた方が良さそうだ」
それは社交的な笑みでも、恋人や妹に見せる笑みでもなく、敵に見せる凍りついた笑みだ。

(……)

今更にして、ニキは地雷を踏んだことに気がついた。
『ニキさんも少しはデリカシーを覚えなさい!』
いつか、今と似たような状況でフィクサーの横に現れた精神科医なのか内科医なのか外科医なのか――とにかく医者に言われたセリフを思い出す。思い出したところで対応を取ろうとは思わないのだが(ああ、こういうことか)と今更ながら理解はした。

フィクサーの腕がオーケストラの指揮者のように舞い上がる。絹の白手袋に挟まっているのは指揮棒ではなくスタンダードな致死力を誇るベレッタM92。吐き出す弾は9x19mmパラベラム弾。当たれば当然肉が散る。銃口の先にいるのは自分。銃声はサイレンサーが抱き込んだ。心臓へ3発。冷徹な射撃が狙った正確無比な銃弾の衝撃に、ニキの体が床に落ちた。最も周囲への手前、殺す気はなかったので致命傷は避けている。とは言え、すぐに病院に担ぎ込めば――の範囲だが。フィクサーが携帯を手に取ったところで、
「いってぇ!」
ニキが跳ね起きた。

さすがにその反応に驚いたフィクサーが目を瞬いた。

倒れた拍子に後頭部を床にぶつけたらしくニキは頭をさすりながら立ち上がる。
「お前ほんとオンオフ違い過ぎんだろ。リチャードもマオもギャップ萌えとかいうやつなんかよ」

フィクサーには意味不明なことをニキが言いながら立ち上がる。

「貴様、どう避けた……」
歯ぎしりの間から漏らすような声でフィクサーが問うた。

「よけてねぇーよ、ひーらぎじゃあるまいし。あたったよ。いてぇーんですけど?
お前のことだからセオリーどーりに心臓か脳天ねらうだろうとおもっただけだよ。まじ痛い」

「――とっさにライフルを盾にしたというのか」

「弁償しろよな。気にーってんだからこれ。AIのL96」

「知るか。身から出た錆だろう」
ふん、とフィクサーが尊大に鼻で笑う。
「思っていたより楽しめそうだ」

暗い愉悦を覗かせるフィクサーに、ニキはただつまらなさそうな視線を投げる。

「そーゆーのはリチャードとかマオに頼めよ」

びしっ、そんな音を立ててニキが踏んだ地雷が音を立てた。正確にはフィクサーの関節の音だ。一瞬で伸びた彼の腕はニキのパーカーの襟首を掴む。
「そういえば、マオとメールアドレスを交換した件について、まだ話し合っていなかったな」

「これは話し合いじゃねぇーと思うぞ?」
襟首を掴まれて、片手に銃を持った相手に話し合いだと言われても、これは間違うことなくただの恫喝。フィクサーの方が背が高いので、上から覗きこまれると中々に圧迫感を感じつつ――
と、間近でニキがフィクサーの顔を覗きこんだ。
「……何だ」
「――おまえ、睫毛なげぇーな」

「な、にを」
言っているのか、という間にニキが襟首を掴んでいたフィクサーの手をすり抜けた。猫の着地のように屈む。床に放り出していた自分の鞄を掴む。ギターケースをそのまま振り上げる。下からの飛来物にフィクサーが後退したことにより、距離が開いた。

鞄を肩に担ぎ、ニキが首を傾ける。
おまえ、よくみると美人だな

外を通りかかったヘリのサーチライトが差し込んで開いた距離が実際より長く思えた。
ヘリの音で何を言ったのかは聞き取れなかった。情報としては理解している、けれど意図が読み取れない。

「なんだと?」
フィクサーの問いに初めから聞いていないニキは肩を竦め――その動作の続きで尻ポケットに入れていたグロッグを引き抜いて、フィクサーへと銃口を向ける。靴底の減るステップでフィクサーは反射的に左へと飛んだ。追って、床に穴が開く。サイレンサーはついていなかった。3発の銃声と同時、床を蹴るスニーカーの音。サイドに避けたフィクサーが今立っていた場所。蝶番が外れて横に扉が立てかけられている出口へとニキが駆け抜けていったその一瞬、鳶色と緑色がかち合った。ただそれだけだというのにフィクサーはニキに笑われたような錯覚を覚える。そんなことはない。ただニキはフィクサーを見ただけだ。それだけのことだった。そのままニキを追って、フィクサーも廊下へと足を踏み出したそうとしたところで踏みとどまる。視界を独占する向けられた銃口。瞬間で退く。
微かな風と、弾けるコンクリート、降っていく破片。

躊躇などなく弾かれる引き金。

――ニキくんは、そんな人じゃないって。

過去から声が聞こえた。

「……何がどう違うと言うんだ?」
口の端だけを釣り上げる。言い換えるなら笑みという他に形容しようのない表情で、ただそこに柔らかな感情は髪の毛一本程もなく、フィクサーこと米国D-LIZARDのボスは笑う。
勘違いしている。
いや、忘れているだけだ。彼らは思い出す機会が少ないから。
誰もが彼もがどう生きてきたのか、その様を。

(あ~まじ痛って)
とりあえず廊下を駆け抜けて、適当な場所に蹲ったままニキは舌打ちをした。至近距離の銃弾を銃身越しに受けたことに対する不満。心臓に穴が開くことの代償とするのなら、それは存分に安すぎたが、受け身を取り損ねてぶつけた後頭部と合わせて痛い。

場所は同廃ビルの屋上、崩れかけた給水塔の横。とりあえずどうしたものか。
煙草を引きずりだして、少し折れたそれを咥える。

(あいつのことだから引くだろ)
余計な事に首を突っ込む質ではない。ビジネスライクに金銭で解決したがる性質だ。今回の設け話は不意に飛んだがまあいいや、と火を点ける。一瞬だけ使い捨てライターの炎がニキの赤い髪をより赤く照らして消えた。

残るのは煙草の先の小さな炎。辺りを照らすには頼りなさすぎる。

音楽端末を引っ張りだし、首にかけていたヘッドホンを耳に被せる。一見で判断すればどこかのアマチュアバンド――ロックかパンクか、どちらにしても半社会的な――のメンバーのような様。ギターケースの中身は楽器ではなく許可証なしに持ち歩いている危険物という点を除けば。

音楽端末を指で叩く。
起きているだろうか。返答は数秒もしないで返ってきた。
ヘッドホンのスピーカーを利用した、ノイズのような短い振動。ベースの低音に似ている。
ニキが指で端末を叩く。
何も知らなければ聴いている音楽のリズムを指で取っているような動作。
ノイズのような振動が返る。――何しくじった?
振動の長短を組み合わせたモールス信号のようでいて、異なったロジックで構成されている茜とニキの共通言語。

――フィクサーいた。
――あー、なんかぽいなー。でも部隊じゃねえよ。護衛はいるけど。
――あの格好だし。ひとりで歩かないだろ、あいつ。
――で?
――移動した?
――してない。
――なんで。
――知らん。

「知っとけよ」
ニキが肉声でぼやいた。

どうするかな。段差に腰かけたまま、ニキは膝に頬杖をついた。吐き出した煙。風に煽られて一瞬で溶けた。

――ニキ、知ってるか?心ってシステムにはPCじゃハッキングできないんだぜ。近くにそれっぽいリムジンはあるけど、移動してない。何した?
――なにも。
――なんかしたんだよ。だから言ったんだ。予備バッテリー持ってけーって。言うこと聞けよてめーは。あと傘も持ってけよな。帰り雨だぞー?

文字通りノイズと化した茜の愚痴っぽいノイズ信号を聞き流し、ニキはとんとん、と煙草の灰を叩いて落とす。それは信号ではなかったが茜には意味のない動作だと知りつつも、聞こえた気がした。聞いていなかった時に返される生返事。

暫く待っていればフィクサーのことだ。イライラしたまま移動するだろう。
スケジュールが分刻みで埋まっているセレブだ。

音楽端末の電池残量を見やる。まだ暫くは大丈夫そうだが予備を持ってこなかったので万全とはいえない。バッテリーを優先するのに電源を切ろうかと思ったが、やめた。普段なら煩いだけなので可能な限り切っているか、聞こえる音量で音楽を流している方が多いのだが、勘に従ってそのままポケットに突っ込んだ。
なるほど、不便だ、と今更にして思う。
暗がりで音が聞こえないということは。
茜作の補聴器を仕込んだヘッドホンと音楽端末。
バッテリーの残量からしてタイムリミットは15分。
気のせいならそれでいい。
だが。
その手の予感は大概において外れない。

「上に逃げる、というのは手としては悪くない」

声が聞こえた。中性的なアルトだが、普段より低めのフィクサーの声。まじまじと聞いてみると不思議な気分だ。

「暇なのかよ」
ニキが呟く。補聴器は無条件に拾うので、自分の声への違和感に顔を少しだけ顰めた。

「ただ所詮は……、と言った処か。やることがザルだな」

(あー。距離わかんね)
音声というよくもこうも不確定なものに、よくも人は慣れているものだ、と心の隅で感心しながらニキはグロッグの残弾数を計算する(17-3)。こちらの予備はマガジンが1つ(+17)――31発。ライフルは先のダメージを考えると除外しておいた方が良いだろうか。暴発もジャムも厄介であるし、そもそも近距離では鉄パイプにしかならない。何より本格的な訓練を受けた輩との近距離戦闘はしたくない。

(ニンジャでも降ってこねーかなー)
とは言え、茜の話を思い出すに、通り過ぎる際に人助けをする善意の台風は現在国外にいないらしいから幸運は降ってこない。

緊張感なくその場に座ったまま、煙草を吸いながら、ニキがぼやく。
「忙しくねぇーのかよ」

「仕掛けてきたのは貴様だろう。
わざわざお遊びにのってやっているんだ。感謝してはどうだ」

フィクサーの声は楽しそうにニキには聞こえた(まだ本気じゃねぇな?)が、
――何したんだよ。わりとマジじゃん?
茜がうんざりを装った、うきうきした声をノイズに変換して来た。
盗聴器で音は拾っているらしい。
なるほど、とニキは思う。声から感情を聞き取るのは茜の方が上手い。
煙草から口を離す。短くなった煙草を捨てる。
(まじなのかー)
ああ、でも――と思う。
折角だから、蜥蜴に悪戯をしてみるのも面白いかもしれない。

気配。誰しもそれを感じるというのに日常生活では個人差が激しいそれ。
彼にとっては手に取るようにわかるそれ。
皮膚を撫でられた時のように、それは確かな感覚器官の一つ。確かなものとして幼少の頃からあったもの。

気配を感知する能力。

フィクサーは確かな足取りで、ゆったりとした歩速で暗がりを進む。
彼にしてみればニキの居場所など手に取るようにわかる事だ。
かくれんぼになりもしない。
が、フィクサーは足を止めた。

屋上へ上がる階段、外と内側を隔てていた扉を失った平行四辺形なだけの外への入り口。
先にニキが持っていた武器を思い返すと、このコンクリートの壁をぶちぬける火力はありそうになかった。一応の安全圏としてフィクサーは狙われない位置を計算してそこに立つ。

ふと、思い出す。
関わりは深くない同業者が言っていた戯言を。
国籍を問わず様々な組織に足を突っ込むフリーのスナイパー。従軍や、訓練を受けた経歴がない故に――書類上に存在しない――腕利きらしい狙撃手の話。噂ではCIA職員による大統領襲撃にも関与していたらしい、と。 噂とは独り歩きするもの。故に真偽の程などわかりもしないし興味もなかった。ただ聞き流したそれを記憶していた理由。

「GHOST」

記された書類がないということは存在しない筈。
故に、その同業者は皮肉を込めて「まるで幽霊みたいだろう」と言ったのだ。

本人の知らぬ呼び名。
それを思い出してみると意外なようで、意外でもないようで、ただ奇妙な納得はあった。
ふらふらと彷徨って呼んでもいないのに余計な場面に現れる――確かに似合いだ、と。
「ならば幽霊退治と洒落こもう。英国人が幽霊ごときに怯む道理はないからな」

先の銃弾を受けた個所を確認して排莢をしてみたが、動作に違和感はなかった。
一度分解してみないと細かいところはわからないが、一旦は使えるか、とニキは先の判断を覆す。

標的のいるビルが見えた。やはり先程の位置が狙いやすかったなと思う。
メリット:視界は外に出たことにより中よりは光量が増して良好になっている。
デメリット:外の方が音が多い。必要な音と不必要な音を区別するのを得意としないニキとしては今の音が必要なものだったか不必要なものだったか――それは音なのかノイズなのか。その判断がしにくい。

聞こえた音に首を巡らせる。

そこに人影は見えなかった。

軽い風。ニキは半身振り返り、上体を傾ける。見えた白――上質な白手袋/繰り出される拳。避けた。拳を引き戻すついでにフィクサーが膝蹴りを放つ。ニキが片肘で受ける。バランスを崩さずにフィクサーの次の拳を下腕で流したニキが掴もうとしたところを涼しい顔でフィクサーが更に流して逆にニキを捕まえにかかる。靴底が焦げ付くステップでニキは後退する。フィクサーの追い打ち・回し蹴りがニキの脇腹にヒットした。ライフルが屋上のコンクリートの上を転がっていく。
「弾より蹴りのがやべぇってまじデスレコードまじ」
同じく転がされたニキが手すりに当った勢いにヒュ、と呼吸音を漏らしながら、呻いた。

それを聞いて、フィクサーは片方の眉だけを尊大に持ち上げる。
「これでも手加減しているんだ。手加減なしなら貴様の内臓など軽く破裂する。
それと私の異名のことを言っているならレコードではなく、カウンターだ」ぞんざいな訂正にニキが咳きこんでから、言う。
「カウンターよりレコードのがけっけーじゃん」

そんな個人の感想はどうでも良いと、フィクサーが無表情にニキへと歩み寄る。
空いた距離は数メートル。ニキの後ろは崩れかけた手すりと夜景。
内臓を破裂させる気はなかったが、それでも骨の2,3本は貰うつもりだった。
フィクサーはわざとらしく拳を鳴らし、犬歯を見せて笑う。
「折角だ。この際――きっちり貴様の体に説明してやろう。何、殺しはしないさ。楽しめなくなるんでな」

「へんたーい」
ニキが平坦に茶化した。

(――折れた。)
肋骨。触った感触でそう判断する。ぐにゃりとした指先への返触と熱源。吐きだした息も熱いような気がした。先日、傘で折られた足のギブスが外れたばかりだというのに。

今ので転がって行ったライフルを一瞥する。取りに行くにはやや遠い。それより先にフィクサーがこちらに手を伸ばす方が早い。出口はフィクサーの後ろ。――首が動く範囲で、視界からフィクサーが消えない範囲で、振り返って背後を確認する。夜景。
ビル風が吹き上がる。紙――おそらくは新聞紙――がその勢いに乗って舞い上がる。

「余所見をしている暇があるとは、余裕だな」

フィクサーが言った。
音もなく伸びてくる白手袋に、懐に入れていたグロッグをニキが腰を上げながら構える。フィクサーの手がグロッグを通り過ぎて、ニキの腕を掴んだ。引き金が引かれるより早く、ちょっとした関節術と力づくでその銃口の方向をフィクサーが変えさせる。曲げられる肘と共にニキの方へ向け直された銃口。ニキの抵抗もあり、銃身で自ら肩を叩くような位置で弾かれた鉛は直線に憧れる曲線を描いて夜景に消えていく。

耳元での銃音にニキが顔を顰めた。切っておけば良かったと思うが、思いの他大音量での銃声を聞いてしまったのは彼ではなく、彼につけた盗聴器を通して増幅させた音量をヘッドホンで聞いていた茜の方だ。だがそんなことは誰も知らない。
フィクサーが固定した左手は動かせない。腿に当たる手すり、その後ろにある浮遊感。

「このまま突き落としてやろうか」

そう言うフィクサーにニキが興味なさそうに、ただ今の銃声に起因する耳鳴りに舌打ちをしたい気持ちのまま、半分以上身体は手すりの向こう側・腕はフィクサーが掴んでいる・片足は浮いた状態――生殺与奪権を握られたままニキが言う。
「やれば?」

フィクサーが苛立つ。それがただの負け惜しみや強がりであるならそうも苛立たない。その言葉にその言葉以上の感情が含まれていないことに苛立った。それでは支配できない。蹂躙できない。制圧できない。利用できない。自由にできない。操れない。そもそもこれがチェスだったとして、ルールに従っているのは自分だけなのだ。初めからくだらない、つり合いのとれないゲームとも呼べぬ状態。

その作り物の粗悪なプラスチックのような目に映るのは奥歯を噛んだ自分の顔だ。

「貴様がどの組織にも属していないのがよくわかる」
苛立ちの中にあった一抹の違う感情を吐き捨てるように、フィクサー。
属していない、のではなく単純にこんな輩は飼っていられない。コストとリスクだけかかる。利益を生まない経費など、幽霊どころか疫病神か害虫だ。

このまま落としてやろう、そう思うと同時、左腕に一拍ずつ冷たさ→無感覚→熱と――痛みを感じた。
フィクサーが掴んでいるのはニキの左腕。ニキの右手がフィクサーの左腕をナイフを持って通り抜けた。その先にあるのはフィクサーの首。頸動脈。
銀色の直線にフィクサーは右に引くと同時に、押した。

そして、中途半端に屋上に残っていた体重を夜景に落として、ニキがフィクサーの視界から自由落下の法則に従って消える瞬間、少しだけ驚いたような顔で、ニキが口を動かした。
Пока, Флоре́нтийя
最後に、何度言ってもそう呼ばれたことに対して苛立ちの視線をフィクサーが送ったが、それすら鼻で笑われたように見えた。

切られた袖がその下で口を開けた肉からの出血をじわりと吸っている。

英国紳士も舌打ちをするが、整った顔立ちは歪めても別の芸術品になりそうだ。
そこで携帯電話が震えた。通話にして耳に当てる。
「なんだ」
『ボス、例の議員に少々問題が』
「……どうした――」
と、今自分が立っている位置からニキが落ちて行った方向の夜景を眺めて、改めてフィクサーは舌打ちをした。 自分が立っているのは先にニキが議員を狙っていた窓のあった方向と同じ方向。先にあるのは高さを変えた標的(議員)のいるホテルだ。先ほど自分の力でニキの銃弾の方向を変えさせたと思ったが、それが計算なのか偶然なのか何なのか。確認しようにも既に相手は退席済みだ。
「死んだか」
『いえ。無事です。が――、次の選挙は無理かもしれません』
部下の報告を聞きながら、カツカツと踵を鳴らしてフィクサーは前へ出る。

手すりから見た下に赤い髪の男の死体は見当たらなかった。
ただ下に、非常階段がある。そこから逃げたことは明白で、無為に罵りたい気持ちを噛み砕きながら、フィクサーが携帯に告げる。
「一旦戻る。車を回せ」

処理するどころか、さらに溜まったフラストレーションを抱いてフィクサーは踵を返した。

苛立ち高らかに靴音が闇に消え、代わりに遠くから警察車両のサイレンが聞こえる。

月のない夜、月も嫉妬する光を抱く人間の夜にあっても、屋上に放置されたライフルを照らす明かりは遠すぎた。

そして――
高級ホテルで娼婦と優雅な一時を過ごしていた上院議員の一人が窓ガラスを割って飛び込んだ銃弾に心底胆を潰して部屋を逃げ出した。それだけであれば何ら問題はなかったともいえるのだが、誰もが高機能なカメラ機能のついた携帯電話を持っている時代の不運。

プライバシーはもはや死んだと誰かがネットで歌う時代。

短絡的なSNS経路に流出したストリーキング姿は例に漏れなくネット上で炎上し、マスコミを巻き込んで面白おかしく脚色されたスキャンダルへと発展し消費されていく。

GHOST that suicidal cat written by Xacra.
BGM 矢野絢子「ろくでなしって呼んで下さい。」
2014/08/02

New Device

見られる方から見たのなら、好奇心しか映らぬ瞳がひとつ、空を埋め尽くして見えるのだろう。もしも顕微鏡のパレット上でカバーガラスを貼り付ける表面張力の中から世界を見上げたのならば。
青い瞳に映るのは、未だかつて見たことのない玩具を見つけた子供の瞳。
睫毛がレンズに触れてしまいそうな程に覗きこみ、次にそれをモニターに全画面表示させる。楽しくてたまらないので、キーボードを叩く音すらリズミカルだ。

鼻歌まじりに何をしているのかといえば、興味のない人間に説明をすれば3分と理解させられずに終了し、興味のある人間に話せば夜が開けても終わらない。

先程帰宅したニキの体内から引きずりだした、バイオテクノロジーとナノテクノロジーの申し子が目の前に、茜は今にも小躍りでもしそうな程に喜んでいた。
事実、指先は首にかけたままのヘッドフォンから――つけっぱなしのテレビ画面の洋画から――漏れる音楽に合わせてキーボードを叩いている。

「うひょう、すっげー! すげぇ! D-LIZARD すげえ!! Across this new device!」

椅子の上で両手を広げる茜は背後のニキの半眼もどうでもいい。
目の前にある新しい玩具こそが重要だ。
残された楽しい時は長くない。
「すげえぞこれ! タンパク質だ! タンパク質でナノマシン作ってっから、レントゲンにも映らねんだよ! タンパク質でできたロボットだ! いやそれだってオレらもタンパク質で出来たロボットだった! 同じモンでできてりゃ、そりゃ無理だ! わかんねえよ!!」
きゃきゃきゃと笑う茜の目の前に並ぶマルチディスプレイでは英数字の羅列が流れては消えていく。タイムトライアルの中で人知れず知る(そもそも知名度が上がった時点で負けとも言える業界ではある)ハッカーは情報の解析に全力と興奮を注いでいた。

「電力供給がすげえシンプル! レモン電池みてえだ! その時の電力でそのまま信号出してんのか!? すげえな!! レシーバーどうなってんだよ!! 受信データをどう変換してんだ!?」

デジタル信号の途絶えたデバイスは既に役目を終えたことを知り、遺伝子にも仕込まれているように自死プログラムを発動している。
茜はばらばらと途切れていく細胞をモニター越しに、顕微鏡越しに凝視しながら、最期の瞬間までの情報を読み取ろうとしている。

死に似た現象を観察している。

テクノロジーが発展して、何もかもが便利になったとして、どれだけ人間が進化して、そして滅びる時が来ても、有史以前、地球上に生命が発生した時から変わらずに、魂の証明がなされ、生命の起源を解読し、遺伝子を操作して思い通りの生命体を造れたとして、人格の再構築が1と0で可能になって、デジタルにどこまでも他者と交わり合うことができたとしても、同じものを求め続けている。

自分に触れる他者の温度アナログを。

そう、神様はきっと淋しがり屋で寒がりなのだ。

一人ぼっちに耐えられなくなったから、誰かを求めてみただけの、迷子の子供みたいな気持ちで世界を創造したに違いない。

だから生き物は自死できるのだ。
与えられるシグナルと共に存在意義を失って。

デバイスは溶けて崩れ、解析が不可能になる。
茜が「ああん」といい所で中断されたと不満の声をあげるが、今得たデータをさらに解析するプログラムを起動させ、その動きを少し眺めてから、ため息を吐いた。

「でかしたぞ、ニッキー」

今更の感謝(?)にくるりと椅子を回せば、当のニキの方は部屋の真ん中にあるソファに寝転んだまま、テレビの方を眺めていたので、茜はばたばたと手を振って自分の存在をアピールする。
「ニッキー! ニッキサーン! 聞いてー! 見てー!!」
視界の隅で動くものに気づいたニキが視線だけ茜に投げれば、茜は満面の笑みで親指を立てた。

「レアアイテムゲットだぜ!」
まるきりゲームで得たような。

「あっそ」
興味無さそうに、ニキが言う。先程、右腕に茜が作った新しい傷を手当する気もないらしい。

「なんだよーすげーんだぞー。聞く? さっきまでお前の中にあったんだぞ?」

「もうねえじゃん」

身も蓋もない返答に茜は椅子に座ったままスライドしてニキに近づいて、口を尖らせる。
「つまんねー奴ー」

「はいはい」
ニキは先まで自分に埋め込まれていた発信機よりも、テレビの方が面白いらしい。
「さっき見たのみてー」

「あー、あれもすげーなー。録画あるぞ」

「なに撮ってんだよ」

「撮ったのはオレじゃねえもん。ナイツコルスの監視カメラだもーん」

(つまりはそれにアクセスしていたわけだ)

「子ども達は全員、英国側に保護されたし、悪の組織は壊滅したし、めでたしめでたしじゃんな」

「悪の組織って、フィクサーなんざその統領じゃねえかよ」

スーツの時なら似合いそうだな、とニキは思う。ただし、リチャードを思い出す。それと、妹。

「……どれがヒーローで、どれがヒールで、どれがヒロインだっけ……?」

何となしに呟いたニキに茜が冷蔵庫から我が物顔でワインを持って帰ってきた。
「それならお前は、美味しい脇役だな。
ちらっとしか出ねえのに、固定ファンが付くタイプの、すぐ死ぬ奴」
ほらどけと、同居人がソファーに転がったままの家主を手で払う。
「オレの場所開けろよ」

そして家主が嫌そうな顔をして、それでも体を起こした。

ニキが頓着せずにポケットに突っ込んだせいでくしゃくしゃになった小切手を、茜は顔の前で広げる。
ニキとフィクサーは誰も仲が良いとは言わないことは間違いないだろうが、度々遭遇して何やらいつもニキの方は大金を得ているような気がしないでもない。

「臨時収入、どうすんだ?」

どうって、と聞かれ、何か使う予定があるのか、と問われたことに思いついて、ニキが茜の鼻先の小切手の額を見る。
金払いのいい上客、知り合いの弁護士が言っていたセリフを思い出す。
確かに、2倍の額を提示されて裏切らなかったから、という理由で3倍出す金の使い方をする輩はそういまい。

「そうだなー。とりあえず、ダッツ買うか」

「一生分以上買えるぞ」

「そんなにいらね。こないだお前に食われた分と、ひーらぎに食われた分」

自分の家の冷蔵庫でありながら、何故か(問うまでもなく)消えていく中身。
時折置かれていた紙を見ると、茜と友人のヒイラギシンジは何やら人の家の冷蔵庫を使っては、好きなものをお互いに勧めあっているらしい。

「なんだよー。もっとでっかいのねえのかよー」

「ライターどこやったっけな……」

言われて茜は呆れたような、からかうような、同情するような半眼で明後日の方向に呟いた。
「フィクサーも、ほんと無駄金払ってるよ」

ライターを探しているニキの横で、ポケットから黒いライターを取り出した。
既に信号は途絶えているが、茜カスタムの手が入ったそれはライターとしての機能を蘇らせている。
それをニキに投げようとして、茜が口角を持ち上げた。
彼の口元の煙草に手を伸ばし、奪うと自分が咥えて火を着けた。
にやりと笑う茜にニキは一瞥をくれて、いつものことだと気に止めず、新たな煙草を手にとって――

茜の咥えた煙草の先で火を着けた。

煙草の代理抗争オルタナティブキス

不意打ちに停止していた茜の時間が流れだす。
その時には既にニキはテレビの方に顔を向けてしまっている。

悔しくなって茜はワインを手酌で汲んで、グラスを一杯一気に空にした。
(……新しいワークステーションを組もう)
せめてもの仕返しに、臨時収入を減らしてやる計画を立てながら、
「ナイツコルスばりに何か埋め込んでやろうか……」
そうしたら、こんなに振り回されずにこっちの言いなりにできるので、それはそれで楽しそうであったので、本人にそのまま聞いてみた。
「どうする? オレがお前の頭弄ってたら」

舞台で命令を待ち微動だにせずに立ち続けていた同じ顔のメイドの姿を思い出す。

対してニキの返答はシンプルだ。
「そんなん、もうわかんねんだから、どーでもいいんじゃねえの?」

ああ、と茜が納得する。
納得した答えをそのまま伝えるのも悔しかったので、事実を告げた。
「だからフィクサー、お前のこと嫌いなんだよ。そういう単純なところが」

(オレは好きだけどな)

「いや、でもやれば出来ると思うぞ? スペックは低くねえんだから」
駄目な子を褒めるような茜の言葉をニキは既に聞いていない。

よし、と茜が一人頷いて、リモコンでテレビを消した。
ニキの不満げな目に満足気な茜が言う。
「せっかく大金持ちになったんだから、何か旨いもん食いに行くのがセオリーだろ」

「……いまから?」

嫌だと顔だけで言うニキに、茜は煙草の煙を吐きかけ、にっ、と笑う。
「おうよ。命短し旨いもん食え若者よ」

「……行けば?」

動く気のないニキに、茜はとりあえず頭突きをした。

New Device
This story written by Xacra from “Fairy the Cage
For Artemisia Absinthium, and thanks.
BGM Linkin Park “New Divide”.