保護中: #N/A: N

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#N/A: A

 茜は自他共に認めるニキのストーカーである。

 それは周知の事実であって、仲間内では当然の空気である。

 ニキの部屋に荷物一式もって転がり込んだのはいつだったか。今にして思い返せば、時の流れに驚愕しそうになると同時に、ついこの間の事であってさして時間の経過を感じないようでもある。

 喜ぶべきは、家主の悪運の強さか、あるは不運のなせる技か。

 不在がちな家主より、もしかしたらばこの部屋にいる時間はもはや茜の方が長く、茜の方が家主と呼ぶべき方なのかもしれない、と思う程度には勝手知ったる己の城と化している。
 不満がないわけではないが、ニキの部屋であり、ニキは不満がないのか、あるいは常のようにどうでもいいのか、他へ移動するのが単純に面倒だからなのか、茜としてもニキの部屋だから転がり込んでいるので、その主が居ない部屋に興味もなく、そうして共に住んでいるとも住んでいないとも言えないような関係は、どうなのかと問うたなら、解答は「すっげ楽」。

 どれだけ計算と感情と状況と判断で茜が事態の収集に(原因は大概ニキの考えなしの言動だけど)、勘と気分だけで動く相手にそんな苦労は等しく泡と消えることも往々としてあるのだがそれもまた楽しいと言える。
 何より他人と暮らすことでどれほど気を使うのか、と当初は茜も気にしたものだったが、そんなものは全くなかった。物の置き場や、触ってほしくない物や、これだけは譲れないと言ったものがあるかと聞いたらば、一拍、何言ってんだ、と言いたげな表情の後、好きにしたらいい、と返されて、思わず茜が言い返した「何言ってんだ」。
 突然自分の城に乗り込んできた相手への言には到底思えなかったが、その言葉に裏も表もなく、その通りだと気づいたのは、転がり込んで三日も経たない内だったか。
 持ち込んだ茜からすれば必須で、少しパソコンを使う程度の人間にしてみれば何に使うのかわからない機材を並べても、その他の日用品を好きに配置しても、冷蔵庫の中に好きなものをぶちこんでも、各種を好きなように配置し直しても、ニキは吐いた言葉の通り、何も気にした様子はないようだった。
 そもそも何かに執着を見せないので、それらもどうでもいいのだろう。
 茜だけにだけではなく、この部屋を溜まり場にしている他の仲間達にたいしても同じだった。
 突然持ち込まれた家具や各自の趣味の物が陳列されたとしても一瞥しただけで、それだけだ。何となく、もはや時代遅れに思えたニキの携帯端末をカスタムしてみても、その辺りに置きっぱなしだった銃器に手を出しても、挙げ句面白いかも知れないと思って買ってきた服を渡しても、特に珍しい反応はなく、いつも通りだったので、それはそれで面白かった。
 言ったまま、見たままなのだと知れば、茜としても使う気など微塵もなく、シャワーを浴びた後に裸で浴室から室内に戻ってしまった時は変な声が出たものだったが、それすらも特に反応なかったのはどうかと思う。
 打算も計算も予測も何もなく、誰に対してもどこに対しても、そのニュートラルな態度に変化がないのだと知れば、どこまでも楽だった。
 茜にとって、飾る必要も偽る必要も、何もない。
 ただそこに居るだけで良かったし、何の必要なかった。
 ただ自分であればいい。それが気に入らない人間にとっては全てが気に障る言動になるだろうが、それはそれで見ていて面白い。かき回される方にとっては何も面白くないだろうが。

 テレビの前に置いたソファの上で寝ぼけた頭を掻きながら、毛布の下から茜が這い出すのも日常としている。
 ぼんやりと、今瞼を閉じてもう一度毛布の下に潜り込めば、速やかに眠りに沈む眼で、室内を見渡して(まだ帰ってないのか)がしがしとあちこちに重力を無視して跳ねた金髪を掻き毟った。

(仕事か……?)

 あれはフリーの殺し屋であるのだから、数日帰らないというのは珍しくない。
 さすがに一月以上姿を見せなかった時はついに死んだかと思ったが、知り合いのカメラマンに拉致られて北極へオーロラ撮影に連れられて行っていたと後で聞いた時は笑い過ぎて腹筋が割れたと思った。

 次行く時はオレも誘って! とカメラマンに言えば「めっちゃくちゃ寒くてもいいならどんとこい」とのお墨付きを貰えたので、今回はそうではないだろう。そうならば先に自分にお誘いがかかるはずだから。

 寝ぼけ眼で力の入らない指が操作した携帯端末で検索してみたがGPSは街の端っこ、工場や倉庫が立ち並ぶ港の方を示してきた。
ならば仕事か、ただ出歩いているだけか、どちらにせよ暫くすれば帰ってくるだろうと見当をつけて、再度夢の国の扉を開こうとしたところで、がちゃりと音がした。
 まだ半分未満になるまどろみが夢心地の未練を残しながら扉を見やる。
 ここ数日、かかりきりになってしまった自分の仕事のせいで、纏まった眠りを取ったのは今のところが久しぶりで、どうしても(ねむたい)寝てしまいそうになるが、茜とて裏暗い世界の住人である。
 予想を間違えれば一瞬で脳天に穴が開く。
 それでも眠気は依然健在で、のろのろと伸ばした指先はローテブルの上に開きっぱなしだったラップトップへと伸びた。
睡魔と戦う中、複雑なパスワードを入力するのは指南の技だ、半分以上落ちた眼で操作する画面を眺めれば、この部屋の周辺の監視カメラの映像が並び出る。
 自衛の為に他者が設置したもの、自分が死角を埋めたくて設置したものを眺め見れば、自分へと襲撃を仕掛けてくるような不穏な陰は見て取れず、部屋の前の映像に目をやれば、予想通りというか、予想外と言うべきか、扉の前に立っていたのは部屋の主だった。

(なんだ、携帯、落としてきたのか)

 GPSを仕掛けた彼の携帯端末の哀れな現状を思いやりつつ、茜はソファから腰を持ち上げた。
 ぺたぺたと裸足のまま、勝手に借りたタンクトップとハーフパンツのまま扉へと向かう。
 後ろ姿は何やら探しているような風に見えたので(携帯落としたなら、鍵も落としたか)ピッキングして開けることも可能だろうが、 その手間を考えると開けた方が断然早い。
 何より部屋に入れてから、また寝たい。寝ているところを起こされるよりは断然いい。

「おまえ、今度はなにして」
 軽口を吐きながら、扉を開ける。外の光に眼をしばたかせて、何より印象に飛び込んでくるのは赤い髪。
 最初染めているのかと思ったが、そんな面倒なことをするような輩であるわけもなく、地の色がそれだと知れば、納得したものだった。
 とはいえ目立ち過ぎるのが玉に瑕かもしれなかったが、楽器の入っていない楽器ケースと、赤い髪にヘッドホンと首筋に覗く入れ墨と、それだけを見ればどこかのミュージシャン崩れに見えるのだから、擬態と言えば擬態とも言える。
 そもそもその計算が本人にあるかと言えば、確実にないと茜は言えるものの
「来たんだよ」

 その赤い髪がぶれた。視界を斜めに横切って、それは茜の肩へと落ち着いた。そんなことは早々あるわけではなく、茜の頭が真っ白になる。煙草と硝煙と、埃っぽさと血と消毒液と――干し草のような、におい。それらで頭が一杯になる。温度。体温。

「……なんだよ?」

 茜は自他共に認めるニキのストーカーである。
 共に住んでいるという点からして、傍から見れば恋人なのだろうと判断されるだろうが、どうにもそういう関係とは茜自身が言い難いものがある。
 少なくとも一度とてそういった言葉をこの男から聞いたことはない。
 そもそもが話すことを面倒がっている性格もあるだろうが、基本的には訊かなければ答えない。
 思った事を口にそのまま出す浅慮さはあるし、大体のトラブルの元はそれだ。
 必要な事は言わない癖に、不必要な事は言ってはばからない上に、その発言の何が悪かったのかを理解しない様は、まるきり善悪の区 別のつかない子供のようなものだから、と諦めると同時にそれを楽しんでいる茜だったが、眠気はすでに遠い場所へ。
 朝日に眼がちかちかするように、頭の中もちかちかしている。
 それは一瞬だったか、茜の肩に乗せた頭、その重さが増した。思わず抱きとめる。体温。その首に耳が辺り心音を感じ取る。さあと音を立てて茜の頭が冷えて、慌てたように崩れる前にその体を抱きとめた。

「おい――」

 声を出しかけて止まる。ぬるりとした生暖かいような、冷たいような液体の感触。
 鼻を突く血のにおい。
 いつもより濃いそれに、茜はそれを引き摺りながら部屋の中へ。
 頭の方は冷えているのに、心臓の方はうるさい。
 どうにも止められないし、それを沈めたら死んでしまう。
 がんがんとなるそれがうるさかったし、自分にのしかかってくる力の抜けた男の体の重さには覚えがあって、思わず吐き気がする始末。
 それを飲み下してから、落ち着けと自分に言い聞かせる。
 それはよくあることだ。これはよくあることだ。この生き物が血まみれで帰ってくるのも、道端に落ちているのも、よくあることだ。いつものことだ――言い聞かせる。
 ぬるりとしたのはどこだ。倒す前にその場所を確認する。腕。右腕。いつも着ている青色のパーカーの袖を濡れ黒く染める内側から染み出した赤は、趣味悪くまだじわじわと広がっていくようにも見えた。
目につく赤はそれだけとは言えないだろうが、すぐにどうにかしなければならないのはそれだと思い、ソファへと傷を広げないように投げ捨てる。
 腕、絞れる程に血を吸った袖を捲る。
 深い、長い、切り傷。
 それはまだ血を吐いている。
 タオルを押し付ける。逃げ腰の判断は――これはプロに頼む仕事領域だ。
(誰に)思い浮かぶ幾人かのプロフェッショナル。
 自分で自分の指先の温度を冷たいと思う。
 端末を操作する。一番近くにいる人間を探す。見つける。
 普段どおりであればもっと早くできるのではないかと苛立つ。
 何故こうも、と思えば先の重さに思い出すものがあったからだ。
 忘れたとは思わないが、今思い出してしまったせいで、どうにもいつも通りにやりきれない。
 通話をタップする指が滲んで見えた。思い出さないようにすればする程、どうにも忘れることができずにいる。

 数コールですら酷く長く感じられた後、
「はい、ソーンです」
「あっ、にいちゃん!?」
 響いた声は間違いなく茜の安堵そのものだった。


 う、と小さな呻き声。
同じく小さな身じろぎと共に、開かれた目は眉間に皺を寄せて閉じられた「……っぶし……」

 それを見て、茜は自分の眉間の皺を指で伸ばしてから、もう一度、深く眉間に皺を寄せる。
「第一声がそれかよ。何かねえの、他に?」
ぺしり、とその赤毛を軽く叩けば「……っせぇ」と普段より更に掠れた声で返された。

「仕方ねえなあ」
不満をぼやいてから、茜が病室/個室の窓へと向かう。やれやれと呟きが聞こえてくる動作で、ブラインドを下げる。元より外からの光だけだったので、昼間とはいえそれで薄暗くなる室内。
「ほらよ」

 茜が肩を竦めて見せるも、「あー」と謝辞のようでもあり、ただの音のようでもあり、何の意味もないであろう声が返る。
(まあ、いつものことだ)茜は肩を竦めるのも馬鹿らしい気分になる。
それでも「ま」(生きてるなら)「いっか」。

 てくてく室内を歩いて、ベッドの横に移動する。
「今度は何したんだよ、お前。ここ、リチャード先生のとこの病院な。
 あ、先に言っとくけど、お兄ちゃんに連絡してあっから、覚悟しとけよ?」

ニキからの返答はない。
せめて嫌顔くらい見せろよ、と茜は自分が不満顔で振り返る。
保護者ミゲルのお説教が苦手なのは見ていて面白い、茜の娯楽のひとつである。見逃す手はないので、わくてかしながらニキが起きるのと、ミゲルがやって来るのを待っていたのだが、起きた方はまた寝息を立て始めているし、弁護士はまだお抱えの仕事が終わらないらしい。ひとり残された茜としては腰に手を当てて、溜息を吐くしかない。

ノックの音に振り返る。「はいー」

「あ、茜さん?」
 のんびりした、相手の警戒を失わせる穏やかな声、ゆっくりとスライドドアを開けて出した顔も、同じように、相手を安心させる朴訥な印象。ただしそれも、裏側というか表というか、剣を握れば王侯貴族な顔を知る者からすれば(ギャップに萌え?)茜も笑い返す。

「よ、にいちゃん」

 最初ふざけてそう呼んでいたらば、いつの間にか病院内で兄弟と認定されてしまったが、今になっても偽弟はそれを楽しんでいるし、偽兄の方は何と言ったものか思い浮かばず、浮かぶのは曖昧な笑みばかり。
笑みを浮かべたまま、リチャードは室内へと歩み入り、ニキの腕に手を伸ばす。
脈を見て、繋いだモニター、点滴を確認「もう大丈夫かな。変わりありました?」

「今一瞬起きたけど、また寝ちまったよ。眩し、うるせぇって。他に言うことあると思わねえ? ありがとーとか、愛してるーとか?」

 口を尖らせる茜にリチャードはのほほんと笑う。
「そんなの言われたら茜さん、倒れちゃいません?
 あー、まあ、血液検査待ちなんですけど、感覚過敏になってるかもしれないですね」

「そうなん?」

「他に何かありました?」

「うんにゃ?」腰に当てた諸手を茜は広げた「全然、いっつも通り? 相変わらず? 何か気になることあった?」

「それなら大丈夫かなあ。
 前に、ニキ君、薬物打たれた時に暴れたことがあったって聞いたことあったから、一応、念の為と思ったけど、要らなかったかな」

「へー、でもあれよ? まだわかんねえから、しとけば? どんな顔するか見たいし?」

「いやー、出来る限りこういうのはしない方が良いですし」

 さらりとした茜の提案に、リチャードが苦笑する。
点滴の針と、計器の接続を確認しつつも、抑制帯を外していく。
落ちた意識を探すように、瞼を持ち上げて瞳を眺める。
その一連の行動を眺め見て「安全、安心、確実のリチャード先生」茜が漏らした称賛の標語に「なんですかそれ?」言われたリチャードは怪訝そうな顔を上げた。

「ほんと、まじ、助かったよ、にいちゃん。心からありがとう」

「いやいやいや、当然のことですし、お礼なんていいですよ」

「今度、そだな、何か新しいパソコンでも欲しかったら、オレに言って? 希望価格と希望のスペック言ってくれれば、用意するよ。もちろん、ねえちゃんが気にするようなのはなしでさ」

 頭の後ろで手を組んで、あっけらかんと笑う茜の様は悪戯を許された子供のようで、そういった態度がまた、リチャードと同じ記号故に弟認定されている理由になるのだが、当の本人が気さくな為、彼の同僚の一部に人気があったりもする茜である。

「じゃあ、今度、お願いしよっかな。この間、パソコンのメモリ増やそうとしたら、メモリ割れちゃって」

「割れちゃってっていうか、割っちゃってだよね?」

茜の呆れ顔に、照れたようにリチャードは頭を掻いた「いやぁ、どうしても手先が無器用で」

「縫合もできるのに?」

「え、俺の縫合、がたがただっていっつも看護師さんに言われてるんだけど?」

「あれじゃないの? 練習足りないんじゃない?」

「本業はメンタリストなので、できれば専念したいんですけどねー」

「恋人、選び直すとか、できるの? にいちゃん」

「できません。」
 茜の茶々をきっぱりとリチャードは否定する「茜さんだって、他の人で満足できます?」

 言い返されては茜としても一拍黙った後に「まあ、ムリでしょうねえ」諦観を声と表情に滲ませた。お互い何とも言えない空気を共有してから、二人曖昧に微笑み合う。理想を目の前に現実を見ろと言われても、そんな空気を呼吸して、
「茜さん、泊まってきます? それならサブのベッド用意しますけど?」

「んー、どうしよっかな。一旦、戻りたい気もするし、その間にお兄ちゃん来たらつま――悪ィし」

 眉間に皺と尖る口、腕を組んで悩む茜にリチャードは変わらず相手の敵対心を失わせる笑みのまま「ミゲルさんが先に来たら連絡しましょうか?」茜の判断を手伝う。

「うーん」熟考は十数秒「じゃ、諸々用意したらまた来るわ」

「はい。あ、あと、これは持って帰ってくださいね」
 リチャードが茜に手渡したのは煙草の箱で、受け取った茜は口元に少年のような笑みのまま、それをポケットへとしまい込む。
「禁煙させたいんだったら、縛っといた方がいいと思うよ、オレ」
 その提案に今度はリチャードが熟考に入った。


「うん、そうそう。大丈夫っぽい」肩と頬で挟んだ携帯、手はリュックに荷物を積み込みながら、茜は通話先に告げる「じゃあ、書類関係、お願いしていい? お兄ちゃん」

 電話の先から聞こえる溜息は呆れと疲労を織り交ぜて「わかった」と答えた。
 色々言いたいことを押し込めてこめかみを抑える様が目に浮かぶ茜の喉が妙な音を立て、誤魔化すのに咳払いをすれば「風邪か?」と自分まで心配されたので「いんや。ツバ、吸っちまっただけ」と慌てた割にはリアリティのある方言が口を突いた。
 法廷という舌戦場を闘う弁護士にどの程度そう言った小手先が通じるのか不安になったところで「そうか」と取り立てて追求されなかったことに対する安堵の吐息を茜は飲み込んだ。

忙しいようで、そこまで気が回らなかったのかもしれない、と茜は思う。仕事でくそ忙しいのに、そこにこんな気苦労まで落ちて来たら(まあ、たまんねえよなー)

「お前たちの事を面倒だと思った事はないぞ?」
 心で呟いたつもりだった茜だが、口に呟いてしまい、舌を出す「さりげに“たち”って括ったね?」

「違うのか?
 何かあったら連絡してくれ。目は通しておくから」

「お兄ちゃん、報われねえなあ」

「お前程じゃない」
 ミゲルがそう言って、簡単な別れの挨拶の後、通話は終了。

「オレ程じゃないってどういう意味?」

 画面を消しながら、茜がぼやく。確かに応急処置をして、医師を呼び、病院までワゴンを飛ばし、入院手続きを終わらせて尚、礼のひとつもないのだから、確かに報われてはいないが、つまらなくもないので、その点は(報われてる……のか?)

 眉間に刻まれた渓谷を指で伸ばす。考えても仕方ない。
 ふと握っていた携帯を眺める(あいつのケータイ、どこだっけ?)というより、帰って来た時は手ぶらででなかったか?

 どこに置いて来たのか。指先は思考と直結して自分の携帯端末を操作する。ニキの携帯と言うより、元々ニキが使っていた古い音楽端末に茜がカスタムを繰り返して、もはやオリジナル端末と言っていいような代物に興味本位で積んである盗聴器とGPS――音は拾えない。ただ砂嵐。位置情報は拾えた――朝見た記憶と同じ位置。港側の倉庫街。

(拾いに行くか、どうしよっかな――まあ、後でいいか)

 茜は携帯の上側面を無意識に唇に当てる。溜息を吐けば、顎の下で液晶が曇る。

「確かに、報われないわ」
 それでも茜の唇は笑っている。報われないが、つまらなくはないのだ。

『ニキにお説教するなら、オレもいる時にして。見たいから』
 指先は軽やかにミゲルへメールを送信した。


 待機画面の表示だけで確認できるメールの内容に、受け取った側はやはり苦笑を浮かべた。
 スライドして既読する。やはりそれ以上の情報はなく、相棒には入れ込み過ぎだと言われる若者の相棒の思考を小さく笑う。
 似た者同士だと。
 その他は仕事関係のメール、それらの中で今すぐ対応するものがあるかだけをざっくりと確認して、即応すべきものはないと判断した後、端末を軽く着崩したスーツの内ポケットに流し込む。
 軽い頭痛にサングラスをずらして目頭に指を押しやる。本来すべき目的の達成の前に随分と回り道。そう思うと指で揉む中でも眉根は険しさを増すばかり。
 ひとつ、息を吐いて、せめても疲労ストレス解消に。さしたる効果はなかった。

 駐車場。病院地下。お説教は後にしろと言われとも思いつく言葉は流れるようにそれらに埋まる。

 数分、運転席のシートに体を埋めたまま、近頃のスケジュールを思い出す。
 抱えている案件が複数あるのはそう珍しくはないが、疲労感に瞼を落とす。
 沈黙、闇、無――それだけの時間をどれだけ過ごしたか。はっとして世界が戻る。腕時計を見る。
 時間経過はほんの五分程度。諸々が片付いたら休暇でも取るかと思いながら、車外へと。
 コンクリートの居城、薄ら寒い色温度の照明と、上がりきらない外から流れ込む日の光。今日の予定を思い返す――ランチの予定。
 それまでには戻れるだろう今の時間は九時二五分。診療が始まるにはまだ少し。
 総合受付のざわめきはまだ控えめで、行き交う人数もまだ斑、患者より入院患者か、医師や事務員の方が多く見受けられた。
 その内、何人かとは顔見知り、互い微笑みを交わしてすれ違う。
 見知った、隣の同僚と笑い合っていた受付嬢にも微笑みを浮かべては、来訪を伝え、連絡を取って貰えば、「病室にどうぞ、とのことです。所要で少し遅れるかも知れませんが、ソーン先生もすぐに向かうとのことですので」
 笑顔で告げられ、ミゲルはサングラスの下から同じく人好きのする笑顔で――病院スタッフの一部で人気を誇る結果にもなる――礼を言って、教えられた病棟の病室へと向かう。

 ひとつ気になったのは、病棟がいつもの緊急外来か外科ではなくて、精神科の方だったことか。
 とはいえ(リチャード先生の本職はそちらであるし)納得できないわけでもない。
 ナースステーションで目的と自身の職を提示すれば既に話は通っていたようで、ナースのひとりが案内を。
 まだ出入りが自由な区画とはいえ、そこはそこ、鍵付きの扉を抜けては目的の病室の扉もまた同じく施錠済みで、鍵穴に鍵を差し込みながらも「規則なので」と申し訳なさそうに看護師に言われればそれ以上追求する気などミゲルにはない。
 そこで鳴ったのは看護師の腰に括ったポケベルで、それを見て顔を顰めるのを見てしまうとこれ以上、その時間を使わせる事に若干の罪悪感から「ここまでで結構です。ありがとうございます」微笑めば、言われた側も助け船だったのか反意なく「すぐにソーン先生もいらっしゃると思うので」きゅっとサンダルの音を立てて廊下を足早に抜けていった。

病室の扉を開ける。カーテンが閉められているからか午前中とはいえ薄暗い病室内。灯りのスイッチを探すより先に、目に入った背中に、
「ニキ」
 声をかける。とはいえ、それは習慣のようなもので、後ろから声を掛けるという行為があらかた無駄だということを知っているミゲルはその肩に手を置く。
 入院着の薄い布の感触。
 振り返る眼差しは、いつも見慣れた、何にも関心がなさそうな安物のプラスチックじみた緑色、暗がりの中、その目に映る自分の姿は到底見えないが、思い出すのは初対面の時、確かこんな空気。
 目の前の風景を興味なく、ただ目に入る情報として流しているような――思わず肩に置いた手を退けた瞬間に鋭い痛みが走り顔を顰めた。
 手を庇いながら後ろに床を蹴り、息が詰まる。伸びた手はニキもの、まるで生き物のように肌を這う刺青に意思――殺意などまるでなく、だが明確に求める結果は同一のもので「ニ……」名を呼ぶ声は二音すら続けさせず、気管ごと喉を押し掴む。
 反対側の手が持つのは点滴の針。初対面の時は自分の万年筆だった。
 あの時はコンタクトレンズを紛失するだけで済んだものの――それよりも気になってしまったのは点滴を無理やり引き抜いた事で、酸欠に喘ぐ口の端が嗤う。
 甘過ぎる、と幾度と言われた忠告を思い出す。そんなことだから反撃のタイミングと空気を逃したのだ――脳内に響く心音が遠ざかるより、その針が自分の体に突き刺さるのとどちらが早いか。
 だが、妙な意地。
 今度は目を閉じてなどやるものか。
 子供じみたと思う余地もなく、サングラスの向こうの眼を睨み返す。
 普段なら、先に視線を反らすのはいつだってニキの方だった。
 今回は微動だにせず、どこを見ているのかいまいち分かりにくい視線は逸らされず、突きつけられる手も針を止まらないままミゲルの眼球を狙う。
 あるいはその向こうの脳を目指してか迫る針を持った手を凝視するミゲルの後ろから飛び出した手がニキの手首を掴む/捻る/白=ドクターウェアの折られた袖を刺青の這う手はすり抜けた。
 肩を力強く引かれる。
 掌の感触を肩に残して後ろに引き押されたミゲルは酸欠と崩したバランスで、壁に背を滑らせた。
 咳き込み、尻を突くより先に床にサングラスが跳ねた音の上に被さる、

「ニキ君、気分はどうかな?」

 落ち着いた声。
 リチャード・ソーン医師。
 ミゲルは床からその背を見上げた。
 白衣の下、医療という肉体労働故だけでは着かない戦闘用の筋肉。
 単純なる戦闘力とセンスならばリチャードの方が上。
 だが、と思うのは、ニキのスタイルは意識してかせずか、相手の意表をつくところにある。
 なまじ専門的な訓練を受けた事がないが為、型と言うものがそもそもない。
 それは本人に何の意図もないだろうが、弱点にして利点でもある。

「ッリチャ……先生……」

 それを告げるより先に動いたのはニキの方で、リチャードの脇腹を狙っての膝は体を撓めた事と間に挟んだ腕が阻み、攻撃者の足を掴もうとするも寸前でその足は戻され、戻した勢いを乗せて屈んだ足払いをリチャードは咄嗟に飛んで躱し後悔(しまった……!)床から数十センチとは言え、制御不能な瞬間、首を反らす、掠めた針が皮膚を擦る音とそのまま投げ捨てられたそれが部屋のどこかに当たる男。
 着地を追った拳をリチャードはボクサーが取る防御態勢で受ける+反撃=引かれる前に刺青を掴/すり抜けた/見失う/探す/見つける/脇をすり抜けたニキが回転を乗せた肘をリチャードの背に叩き込/リチャードが体を捻る/外れる/今度こそ、その腕をリチャードが掴んだ+引く+引っ張った背に捻り上げる×体重をかけた=床にニキを押し倒して、リチャードが告げる。

「ニキくん、聞こえてる?」

 ニキの目がリチャードを横目に見た。そこに何も拾えない、空っぽの緑色。
 と同時、リチャードは衝撃を感じる前にブレた視界に床に突いた自分の手の甲を見た。苦笑い。
「あの体勢から、そんな無茶な蹴りなんか出すから、ほら、傷開いちゃったじゃないか」

 肩を抑えられた状態から、海老反っての足裏は確かにリチャードの側頭部を打ったが、体勢が体勢、損傷はむしろニキの方が多い。
 ぱたぱたと床に落ちる血痕など存在しないと言うように(というより何にもないみたいだな)、赤毛の合間から緑瞳がリチャードを見返す。
 手を離してしまったことに苦渋を噛み締めながら、如何に相手にこれ以上傷を負わせずに無効化するか考えるリチャードの前のニキの後ろから、
「お前は何をしているんだ……!」
 ごん、と重い音と低いミゲルの声。

 遠慮の類いは一切なく、頭に拳骨を落としたミゲルを振り返ったニキが目を瞬いて「……あっれ……ミゲ……?」寝惚けたような声を上げ、ぐにゃりと床に崩折れた。
 誰よりも早く駆け寄ったのは流石医師か、リチャードの方が早く、伸びた指が呼吸/脈/瞳孔をチェックして、 「ニキ君は大丈夫ですよ。ミゲルさんも大丈夫ですか?」

 片手で首を抑えたまま立ち尽くすミゲルへと相手を安心させる笑みを浮かべる。
「あ」咳払い「…ああ、俺は大丈夫です」答えたミゲルにリチャードは「ちょっと、失礼」とミゲルに手を伸ばす「うん、大丈夫そうですね。でも一応、消毒ぐらいはしときましょうか。縫うほどじゃないんで。ちょっとそっちの簡易ベッドの方で休んでてください」

 ナースコールで人を呼びつつ、リチャードは簡易ベッドを指差した。

 手伝うにも、出来ることもなく、増えた人口に邪魔にならない為にも、弁護士は指されたベッドに腰掛けた。することのない手が首をなぞる。掴まれた跡が今更熱を吐き出して、その位置に指を置けば己の脈にありありと触れる。寝惚けたような声の前、自分を殺すと決めた殺意のない意思に何を思うのが正しいのか、弁護士は精神科医の縫合を眺めていた。


「ヒイラギとアレンと――飲んでたところまでは覚えてる、だそうです」

 自分が悪いわけではない。
 原因が何かもわかっている。
 だがどうにも居づらい空気は、リチャードの困ったような笑みではなく、どす黒いオーラをごんごんと放出して場の空気を淀ませているミゲルの腕組みとその視線のせいだな、と茜は何となくベッドの端に正座したまま、視界の隅に彼を入れつつ――ミゲルは部屋の隅の壁に寄りかかって立っている。
 そこは室内の全てのものの動きを把握できる場所で、その立ち位置からもその心情は押して図るべきだと、怒られていない自分までも正座させてしまう空気を漂わせている。

「何か他に覚えてることあります?」
「――ない、そうです」
 茜の通訳。この状況の諸悪の根源は茜の傍ら、ベッドの上で、枕の下に頭を埋めて丸まっている。

(アルマジロ……ダンゴムシ……亀? ……病院から帰った後の不貞てた猫……)
 その様を見下ろしながら茜は何に似ているか考える。
 これだ! と思えはしなかったが、その辺り。外界を遮断したがる姿勢。

 リチャードが苦笑いの端を指で掻く。
「えっと、まあ、一応まだ安静にしておいた方がいいので」

 茜はリチャードを見返して、自分も苦笑う「ごめんなあ、にいちゃん」

「それは、もういいので」
 茜が訪れた時、リチャードとミゲルは謝罪合戦中だったので、茜にまでされては食傷に過ぎるのだろう。
 茜も溜息を吐くが、元凶は枕の下に逃げ込んでいる。
 この状況から逃げようとして逃げられない故の行動ならまだ可愛げがある。
 が、この状況に責任に通じるものを感じるようであればそんな状況の原因にもならないわけで、単純に煩い+眩しいからで、ミゲルの質問を伝えているのも、ニキの答えを返しているのも茜である。

「まー、普段鈍すぎるくらいだから、ちょっとくらいいんじゃね?」
呆れた思いがそんな言葉になるも、丸まった背中には届かない。その背中を茜の指が叩く――何か他に覚えてねえの。
 ニキの指が枕の上をととんと叩いたと思えば、時折混ざる指と掌の動き、リチャードにはさっぱりだが、茜の顔を見ているとごく自然にコミュニケーションの一部として使っているのは一目瞭然。ミゲルの顔の苦さの変化からすると多少はわかるようだった。手話とも違う、独特のそれ。

「ない、ってさ」
茜がリチャードを振り返り、肩を竦めた。足が痺れてきたのか、折り畳んでいた足を伸ばして、ベッドの縁に座り直す。
「多分というか、きっとというか、絶対でもないとは思うんだけど、もう無理じゃねえかなー」

「そうなんです?」

「すげえ雑で、オレもよくわかんないから」
そう言って、再度茜は肩を竦める。何が? と目に浮かんでいたか、リチャードに茜は手を持ち上げて、意味を持って指を動かす。手話――のようなもの。

「これ。一応スタンダードな手話と、モールス信号が原型っぽいんだけど、どうにも自由過ぎて、雑になるとわっかんね」
 お手上げです、と諸手を上げて、茜。

「茜さん、手話とモールス信号わかるんだ」

「少しはね」上げた手を茜は下ろす。指差す「これと付き合ってっとねー。便利だよ。内緒話できるし、こっちのがこれも楽みたいだし」

 空気が流れる音、ミゲルの吐息。
 リチャードの視線が向けられたことに気づいていないのか、サングラスの位置を直す仕草。
 眉間の皺はその苦悩と比例。
 普段であればにこやかにビジネスライクに洗練された対応を取るというのに、今は不機嫌さを隠す余裕もないようだった。

「一応、二・三日くらいは様子見たいので、入院でいいですか?」

「ええ、お願いします」

むしろこちらの疲労が心配になってくる低い声音でミゲルは答えた。
 頭痛を堪える様にも見えたので「ミゲルさんも、お疲れみたいですけど、大丈夫ですか?」

「ええ。ご心配には及びませんよ。先生こそ、お手数をおかけします」
 サングラス越し、浮かべる笑みは大人のそれ。自身の機嫌を自身で取れるスタイルの。

「いえ、仕事ですから。ではちょっと手続きの方、お願いすることになりますが」
「はい」

 やり取りを見て、自分とてそうなのだが(大人の会話っぽい)茜は感想を持つ。
 胡座をかいて、足に手をやり、座り変えて、「オレ、どうしようか?」

「あ、茜さんは、ちょっとニキ君、お願いします。
 何かあったらそこのナースステーションにいるんで、すぐ呼んでくださいねって、あ、ひとつだけ聞いてもらっていいです?」

「何?」

「どうやって、抑制帯、外したんです?」

「ああ、それ、おい、ニッキー」
 ついついとその背中を突いて、それから、
「あ、無理ぽ」
 茜が呟き、リチャードに諸手を上げる。
 どうしたのかと疑問符を浮かべたリチャードに、茜は眉根を下げて口角を持ち上げる。
「寝た」


 ナースステーションのカウンターで渡された書類の内容をきっちり確かめてから、必要な箇所にサインをするミゲルの眉間の皺はまだ深い。

 サインされた書類を確認しつつ、リチャードは小さく笑う。
 それに気づいたミゲルの目に、リチャードは「すいません。何か、ミゲルさんて、ニキ君のことになると本当にお兄ちゃんみたいだなって。
 茜さんがそう呼んでるのも、誂ってるだけじゃないですよね」

「入れ込み過ぎだとは思うんですがね。どうにも」
 ミゲルの自嘲にリチャードは微笑む。

「良いと思いますけどね。そういうの。  何となくですけど、わかる気がしますし。
 つい放っとけないっていうんです? 何かそんな感じは僕もありますよ」

「それは、この病院のオーナーのひとりかな?」

 ミゲルのサングラスの後ろで光るのは善良な庶民の味方たる弁護士の善意ではなく、知識と話術と社交術と、情報とで生き抜く生業故の一瞬の反射。
 だがそれはすぐに拭い去られる。
「詮索ではないですよ。ちょっと悪い癖が出ただけで。お気を悪く箚せたら、申し訳ない」

「こちらこそ、もしかしたら出過ぎた事だったでしょうか?」

 再開しそうな謝罪合戦が擡げた頭をふたり、同時小さく笑い飛ばす。

「さて、こちらで全部ですかね?」
「ですね。ありがとうございます。この後、どうされます?」
「用があるので、お暇しますよ。何かあったら携帯に連絡ください。あと、必要と思えば何をしても構いませんよ」
ミゲルの口元はいつもの微笑を湛えていたが、サングラスに覆われてもその目は笑っていなかった。


 一方、茜は暇を潰すのに、ニキの背中を眺め見る。
 頭の上の枕の上に置かれた腕には盛大にガーゼとテープに包帯。
 隙間を縫って覗き見。自分の方が上手いのではないかと思う出来も、一度縫ったところをまた割いて、縫い直したのだから、仕方ないか「にいちゃん、メンタリストだからなあ」独りごちる。

 そこでふと、気づくもの。
 リチャードが巻いた、予想より多い包帯を解く。
 動転していた上に、血まみれで気づかなかった。
 洗い流されて、消毒されて、薄っすらとしか残っていないそれは「……マジックの線か? これ」

 もぞりと腕が逃げた。起きているのか、いないのか、微妙にわかりずらい緩慢な動きで。
 特に理由もなく、そうしたいからそうした、というだけの気持ちで、茜は枕を引っ叩く。
 消音器まくらの向こうから何と言ったか全く聞こえなかったが、拾えた感情は鬱陶しいというもので、恐らくそれは罵りの類いだったのだろう。

「まじ、お前、何してたんだよ」

 呆れにそろそろ苛立ちが混ざる。それはその内、怒りになりだろう。
 ふつふつ、煮える気配を腹の底に感じながら、茜はその背中を小突いた。
 身じろぎはするものの、半分程度は浮上してきているだろうが、半分以下はまだ無意識の向こう側。

 いらいら、ふつふつ。茜はニキの枕をひったくる。

 半分開いていた、常から悪い目つきをさらに悪くして、ニキの口が囁く音は、
「――Тебе нравится это?」
 茜が好きに遊べる言語ではなく、一瞬、何を言われたかわからなかった。
 だが、時折、これはそれを呟く。
 全く何を言われているのかわからないのも癪な茜だったので、そう気づかれることなく(気づかれたところで、こいつ、何も気にしねえけどさ)多少は聞き齧ってきた知識から、言われたことを少し遅れて理解する。

「は? 好き? これ? どれ?」
 思い切り顰めた顔でこれ以上なく「何言ってんだ、お前」という言葉にせずとも伝える茜の表情が見えているのかいないのか、ごく薄くニキが笑った。
 微かな笑い声とも取れぬ吐息は、落ちた瞼と共に寝息のものに。

「何見てんの、お前」

 脳波を映像化する技術はどこまで行っていたのだったか。
 実用化に向けて研究が発展途中の恩恵を今すぐ茜は手にしたい気持ちだった。

 今度はニキの頭を引っ叩いた。反応は特になく、それもまた面白くない。
 ベッドの端に胡座をかいて、膝に肘、頬杖を突く。
 到底行儀のよい格好ではなかったが、それを気にする必要はこの相手に対しては全くない。
 それが何より楽であり、それが何より、今は面白くない。
 報われないな、と言われたミゲルの台詞を思い出す。全くもって報われない。確かに。

こん、と軽い音。こちらを伺うリチャードの顔が扉から覗いている。
「今、いいです?」
「いいよ。寝ちまってるけど、それでよければ」

 カルテを挟んだボードを片手に、リチャードは部屋にゆったりとした速度で歩み入る。
 不用意に動くことで誰も刺激しないように。繰り返せばそんな歩き方が身につくのかな、と思いながら
(いや、でも元々聖騎士パラディンだからかな?)

 ニキとふざけて着けた呼び名。
 あの時は何の話をしていたのだったか。
 RPGなら、といった話だったろうか。
 最終的に茜はマオがお姫様だと言って、ニキはフローレンスがそうだと鼻で笑ったのだ。
 確か(マオちゃんが魔王の方が面白ぇ、とか、本人に聞かれたら絶対怒られるんだろうなあ)。

 怒られたところで、何が悪かったのかも理解しないのと、それを見ているのが面白くもある茜が言ったのは「本人には言うなよ」ただ一言。

「あ、いいですよー。むしろ寝ててもらった方が良いかも。
 まだ薬抜けてないでしょうから。
 そんなに酷くはならないと思うんですけど、検査結果でたので、対抗薬もわかりますしねー」

「何の薬だったん?」
 茜の疑問はリチャードに道端ではした金で買える薬の正式名称と俗称を告げられて、茜は「ああ、石ころ」と呟いた。

「石ころ?」

「うん。道端でちょっと探せば落ちてる、って意味。
 何かもっとやべえのかと思ってたけど、えらいカジュアルなヤツだね。
 蹴っ飛ばした石が転がるっくらいにしか飛べないって話だし?
 まあ、お遊びにならいいんじゃない?」

「違法薬物にカジュアルもセレブもないと思うんですけど……」
 呻くリチャードに、茜は足首を手で持ったまま、肩だけを上下させる「まあ、人それぞれだよね。オレは嫌いだけど」

「ニキ君って、そういうの――言い方悪くなっちゃうんですけど、常用しているそういう薬ってあります?」

「ないよ。何か時々、こういう感じでやってるっつうのか、やられてる時はあるけど、眠くなるだけで、つまんねーってのが本人の感想」

そして事実、今、茜もつまらない。
「どうせならもっとハジけるくらいの面、見たくねえ?」

「違法薬物の使用は推奨しかねますよ。  禁煙もお勧めしますし、食生活の見直しなんかも、何でしたら、ご紹介しましょうか?」

 ははは、茜は笑う「前より大分マシなんだぜ? 最初の頃なんか、冷蔵庫にビールしか入ってなかったし」

 今になれば、茜がヒイラギと文通のように自分が旨いと思ったものを入れているし、ニキ包囲網と茜が勝手に呼んでいる、アイザックが持ち込んだ手作り料理が詰め込まれていたり、誰が買ってきたのかわからない食材の類いが詰め込まれて、茜は関心のないニキに拘らず、冷蔵庫の買い替えを検討中だ。
 主が何も気にしないが故に、各々が好き勝手に持ち込んだ物々で、最初何もなかった部屋はごった煮と化して、もしプロファイラーが部屋の住人を独りと仮定して分析したのなら、大層頭を拗じられるだろう、と思う(もっとも、数人が出入りしてるって見破れなきゃ、プロじゃねぇか)。

「食えって言わねえと、全然食わねえしな。煙草で栄養取れるのかと思ったことがあんよ」

「そんな人類はいません。茜さんが居てくれて、助かりますよ」

 そう言って笑うリチャードの言葉にも裏も表もない。
 そして茜はベッドの上に畳んでいた膝を伸ばして、組み直す。
 後ろの背中に寄りかかる。
 怪我人に対してする態度ではないかもしれないが、気にしない。
 病院着、各所にアクセスしやすくする為に、服として意味があまりない布は薄い為、その温度が指に触れる。

「ニキ君、何か言ってました?」

「うんにゃ、特には。
 ああでも、半分夢ン中なんだろうけど、これが好きなのか、って言ってたけど、何かよくわかんね」

「見た所、もう大丈夫ですよ。入院は念の為と、後は、放っとくわけにもいかないってところですかね」

「にいちゃんもごめんね、今日、非番だったのに」
 茜の不満は多少口を尖らせたが、その端は笑ったままだ。

 カーテンを締め切って、室内の灯りも消しているが、時刻は昼――何かをするのに困ることはない。
 押しやられたベッド用テーブルの上に置きっぱなしで忘れていた缶ジュースへと手を伸ばす。
 見たかったと思いつつ、見られなかった乱闘(病院の監視カメラに残ってないかなぁ)。

 ひとつ、リチャードに差し出して、断られる前に押し渡す。
 もう一つを自分用にプルタブを引き上げる。
 いつでもやっている動作だったが、勢いを付けすぎたか、その場に押し戻して終わるはずのプルタブは取れて、茜の指に残った。
 テーブルの上に置く。
 普段見ている風景と微妙に違うだけで、プルタブの外れた缶は何やら間抜けに見えた。
 甘い炭酸が口の中で膨らむ。
 飲み込む。
 受け取ってしまった缶を白衣のポケットに入れるか悩むリチャードに、思わずそれを吐き出しそうになった。
 ぎりぎり飲み込んでから息をつく。
「兄ちゃん、もうちょっとバレないようにサボれるようになんなよ」

 茜の指摘にリチャードは後頭下と欠いた。
 首筋を撫でるように手はそこで止まり、照れたような、ごまかすような、してやられたと言うような笑みを浮かべて、
「どうも、うまくいかなくって」

「駄目だぜー。こいつみたくさぼりっぱなしっていうのも駄目だけど、手を抜けるところは抜いてかなくちゃ。
 知らない間に疲れちゃうぜー。って、あれミゲルは?」

「仕事に戻られましたよ?」

「あんのお兄ちゃんももっと気ぃ抜きゃいいのにね」
 茜は缶に口付けたまま、ぼやいた。リチャードもそこは同意のようで、肝心の元凶に動きはない。

 リチャードはカルテに何かを書き連ね、閉じる。
「茜さんも、ちゃんと休んでくださいね。
 そっちの簡易ベット、結構寝心地いいんですよ。俺も偶に使いますから、保証します」

 そう微笑まれては、茜は頬を掻いた。
「皆大人だぁな」

? と微かに顔を傾げたリチャードを見るでもなくただ視界に入れて、茜はぼやく。
「なんか、ちゃんとしてんなぁ、と思ってさー。  何か、こう、プロって感じ? どうにも、何か、うん、すげぇな。やっぱクラーク・ケントだ、にいちゃん。助けてくれて、ありがとう」

 改めて頭を下げられて、リチャードは「えっと、こちらこそ?」思わずそんな言葉を。

 茜は“にっ”と笑い上げる。その眉は下がっている「ほら、こんなんだからさ」
 茜はフリーのハッカーである。肩を竦める。
 偽造して社会保障番号を持っているし、その場その場にふさわしいIDを作り出すことも造作もない。
 だが、誰かを救えるかといえば、答えはNOだ。

 誰かが全力で隠したいと切に願うものを暴くことは容易くとも。

「うん。まじでありがとう。PC、タダでいいよ」

「それは、ちゃんとお支払いしますので。
 でも、お手柔らかにお願いしますね。あんまりハイスペックな物を渡されても、オーバースペックになっちゃうので。
 じゃ、茜さんも、あんまり無理しないようにね」

そう言って病室の外へ出てリチャードの遠ざかる足音を聞き拾いながら、缶をテーブルの上に。  茜は天井を仰ぎ見る。そこにあるのは白の――終わり・断絶・行き止まり。

 エアコンの通風孔だけが出入り口になるかもしれないが、脱出経路として使われることを封じる為に、天井に固く留められた簡単には外せない特殊な螺子の穴を何故か凝視してしまってから、くつくつ、と小さく笑う。
 それは堪えきれない爆笑とは違い、抑えきれないだけの笑い。
 嘲笑うようにも、楽しげにも、悲しげにも、虚しげにも、どうとでも取れる小さな笑声は響きもせずに室内に暫く落ちて、消え失せた。

まっさらな、何の虚勢も乗せていない表情で、茜は長く深く肺腑に溜まった息を全て吐き出す。

(さっすが、クラーク・ケント。思わず、頼っちまうわ)

ともすれば言葉通りに泣きついてしまいそうな程に。

 だがそれを望んでいないことも、見抜かれているのだろうと思う。
 あの紫の入った深く澄んだロイヤルブルーの瞳は、きっとお見通しなのだ。

 正直なところ、もう少し優しくされたなら、泣いてしまったかも知れない。
 だがそんな自分の脆さは許せない。
 それすらも見抜いて、こちらの最後の拒絶を尊重してくれる様を、大人と呼ばずに何と呼べばよいのか。

 こちとら何年前も前のことを未だ昇華できずに引き摺っている。
 お気に入りの毛布を手放せない子供の脅迫概念のように。
 それが子供としての自分の最期の砦であるようにも思える。
 だがそれを晒してしまえる程、大人にはなりきれない。
 あの精神科医クラーク・ケントはそんなことはないと笑うだろうが、それでも自分からすれば立派な大人に見え、ふざけて呼ぶのが本当のように、兄として慕ってしまいそうになる。

そうしたとしても、少し困ったような笑みを浮かべて、やはりそんなことはないと言うだろうか(言うだろうな)。

 簡易ベットを横目に、茜は既に一人寝ているシングルのベッドに横たわる。
 その背中を眺める。皮膚の下に描かれたトライバルな文様を断ち切ったり、引きつらせる幾つもの傷跡を指でなぞれば、擽ったかったのか、かすかに身じろぎをして離れようとしたそれに掌を当てる。
 その様を全て見ていたいと思う。最期まで。
 だがその最後を、あの最期と重ねずに、見られるほどには――

(子供だな、オレ)

 そうして茜は瞼が落ちるのに任せる。
 暖かな眠りに沈み浮く為に。
 眼の前に広がる模様と新旧幾つもの傷跡は、ひどくらしいと思うのだ。
 これを描いた人間を知っている。
 直接会って話したことはないが、誰かは知っている。
 それがまさに己の限界とも言えて、茜は口元を笑みの形に似せて歪めた。

 心音が聞こえる。呼吸音が聞こえる。

 自分のそれを邪魔だと思う程度には、ずっと聞いていたいと思う。願う。もしも口が裂けたら言えるだろうか。

 何を言っても、何をしても、その態度は変わらないだろうか。
 まるきり他人だった時には戻れない。
 今更にして、息の仕方を思い出した様。
 消毒液のにおい。包帯のにおい。血のにおい。埃っぽい、枯れ草のような、どこか土のにおいと、煙草のにおい。

 包帯とガーゼに額を着ける。
 そうしてまどろみは訪れた。程よい闇の中にたゆたうように沈んでゆく。


 茜から貰った缶ジュースを、自販機の側で、半分程飲み下してから、リチャードは携帯端末を手に取った。

(一応、玖郎さんに連絡しておこうかな)

 あの真面目な青年はきっと険しい眉根と目つきで、言いたいことをどう言うべきか、それを言うのは正しいの考えている顔をするのだろう。
 経緯と自分の診断を片手で打ち込んでいると、後ろから気配と陰。
 振り返ると、
「あ、またリチャード先生、そんな甘いジュース飲んで。太りますよ?」

 看護師に手に持った缶の糖度を指摘された。

「太っちゃったら、あの美人の彼女さんの横に並べませんよ。すっごいスタイルいいじゃないですか。差がついちゃいますよ?」

「かもしれないなあっ、って、会ったことあったっけ?」
自分の彼女として思い当たる人物は唯一人。

「前に、先生が検査入院した時にお見舞いに来てたじゃないですか」
 見てましたよ、と彼女は人差し指を唇の前に立てた。得意げな笑顔。
「すれ違った時に会釈した程度ですけど、ものすごい美人じゃないですか。
 その隣にいたいなら、先生もスタイル気にしないと。あとおしゃれも。
 スクラブだからって、通勤の時の格好はないんじゃないですかね……」

 はは、リチャードは笑う「そんなにしょっちゅう飲んでるかな」

「タイミングの問題かもしれませんけど、わたしが見かける時はいつもそれですね。
 医者の不養生じゃないですけど、先生倒れられちゃうと、本当に困るんで、気をつけてください?」

「厳しいなあ。でも、オフの時はバスケしたりしてるんだよ?」
「それならもうちょっと気を使えばいいんじゃないですか? リチャード先生、元はいいんだから。もっと、おしゃれとかしたらいいんじゃないです?」
「そうかなあ。そうなのかなあ」

 首を傾げつつ、もう半分も飲みきって、空になった缶をゴミ箱へ。かこん、音を立てて落ちた音。もうじき昼ということもあってか、開放病棟の空気は日差しと共に明るく見えた。
「あ、そういえばさっきミゲルさんにお菓子貰いましたよ。先生も後でどうですか?」

「そうなの? 悪いことしちゃったかな」

 リチャードは歩き出す。
 その横に並ぶと、リチャードの方が当然、背が高い。
 少し見上げるように、その横に彼女が並んで歩く。

「気にしないで良いってご本人は言ってましたけど、あれ有名なヤツですよ、絶対」

 二人が向かうのはナースステーションで、今日はそれ程立て込むことも起きてていない中、起きた事件とも呼べないことは、非番だったはずのリチャードがわざわざ患者を拾って来たことぐらい。けれどもそれは滅多にないわけではなく、時折あることなので、取り立てて騒ぐ必要もない。単なる癖なのか、信念なのかわからないが、眼の前で転んで泣いている子供がいたならば手を差し伸べるのを迷わないような、そんなものだと、笑っていたのはいつだったか。

「ミゲルさんて、いいですよねえ。きれいな顔だし」

リチャードは小さく苦笑する。自分より高い位置にある頭の笑みに気づくことなく、同僚は何処か夢見る少女のような口調で、
「丁寧だし、上品だし、真摯的だし、サイン頼んでも嫌な顔ひとつしないし、ハンサムだし、落ち着いてるし」

「いい人だよねえ」
 のほほんと、リチャードは相槌を打った。
 恋人とビジネスの関係を結んでいる以上、後ろ暗いことがないとは言えないが、何か合った際(大体ニキ君がらみだけど、俺も助けてもらったことあるし)とても頼りになる。
 個人的に自分が彼と関わることも恋人はそれ程、嫌な顔をしない。
 ビジネスにきっちりと線を引ける(ニキ君の事となるとちょっと大人気ない気もするかな)のだから、当然かも知れない。
 茜に対してもビジネスの点から重宝しているのも知っているが、その視線はやはり”弟妹”を見る視線に思える。

 看護師の会話は続く「ミゲルさん、人気あるんですよ」
「わかる」
「えっ」
「良い人だし。カッコいいよね。おしゃれだし。誰に対しても親切だし。
 中々できないよね。法律関係のことも親身に相談に乗ってくれるし。仕方ないかなあ」
 のほほんと知人を褒めていたリチャードは隣を歩いていた同僚の気配と姿が遠のいたことに気づき、立ち止まる。振り返る。
 数メートル離れた廊下で同僚は立ち止まって、なにやら真剣な、それでいて期待するようなギラついた目で、
「それって――」
「うん?」
「リチャード先生、もしかしてミゲルさんのこと」「違うよ!?」
 つい声を荒げてしまい、通りがかった他な患者にぎょっとされ、リチャードは慌てて「あ、すいません。思いの他、大きな声出ちゃって」何でもないことを強調すれば、怪訝な顔をして、曖昧に頷きながら去って行った。
「違うんですか?」
 声が届かなくなる距離に離れ、廊下の角を曲がった患者を見送ってから、同僚は少しつまらなさそうに口を尖らせ気味。
「ちが!……ちがうよ?」
「えー。でも凄い褒めてたじゃないですか? 今」
「それはそれだよ。良いところだと思うし、見習わなきゃなと思うところだし」
「なんだ。そっかー。ま、あんな美人な彼女さんですし、一筋ってこどですねえ?」
「それはそうだよって、変なこと言わせないでくれる?」
 ひっくり返った声を戻してから、リチャードは赤くなってしまったと自分でも顔に熱を感じながら、平静を装う。
 たしかにここにいたのがミゲルだったなら、誰も気を悪くしない言い方で、でもそういった不用意な発言は、やはり不用意な誤解を招くことを伝えられるのだろうし、恋人なら籠絡して手篭めにするようなことを嘯くかも知れない。

「エスターさんは面食いなの?」
「リチャード先生に言われたくないですよ」
「えっ、何で?」
「リチャード先生の周りってきれいな人多いじゃないですか。
 彼女さんも、弟さんも、ミゲルさんも。
 一番はフィクゼリウスさんですけど。何かコツでもあるんですか?
 あ、今日もいつも怪我してくるニコライさんですっけ?
 あの人も一部には人気あるんですよ?」
「そうなの?」
「デンジャラスな香りのするアウトロー系好きなタイプ、いるじゃないですか?
 何考えてるのかよくわかんないんで、私は苦手ですけど」

(何考えてるのかわかんないっていうより、何を考えているか教えてくれないんだよなあ。
 もう少し、何か教えてくれたらいいんだけどなあ)
 そんな考えを脳裏に、リチャードは会話を続ける。

「エスターさんはそういう人がタイプなんですね」
「違いますよ。私は真面目で一筋で、礼儀正しくて、優しくてー、お金持ちだと尚いいですね」

 それは半分以上冗談で、本気にする気は本人もないだろうが、思いつくぴったりな人物が自分の意中の人だと気づき、ふと(この子、暗茶色の髪で小柄だから、危ないかもしれない)もっとも恋人の女性に対する気持ちは女の子がお人形遊びをするのに似ている。
 好きなもの、綺麗なもので飾り立て、それを眺めるのに。
 される方は自分がお人形だとは思っていないので、後々面倒なことになるかもしれないのを、内心で警戒する。
 この同僚――エスターはこの病院に来てまだ日の浅い看護師だ。仕事ぶりに非なる点はないが、今の話の流れだと、もしそんな流れ・・になったなら――額に汗が滲みそうになった。

「でも貴族なんて大変じゃないかなあ」

「そうですか? 貴族の人って働かないで好きに暮らしてるんじゃないんです?」

「そういう人もいるのかもしれないけど、フィクゼリウスさんは領事館の仕事とか、他にもいろんな会社の代表とかしてるから、忙しいんじゃない?
 海外の人ともやり取りあるみたいだから、大変なんじゃないのかなあ」

「ああー……」エスターが喉の奥で呻く「……わたし、外国語、苦手です」

「じゃあ、勉強しないとねー」

 のんびりと告げるリチャードの横で、眉間に軽くエスターは皺を寄せる「玉の輿にも努力が必要なのかな」

 そんな会話はナースステーションに着いてしまえば自然と終わり、他の同僚に呼ばれて小走りに奥に消えたエスターと、今来た看護師に「あれ、リチャード先生、今日非番じゃありませんでした?」と問われ「ちょっと気になることがあって」と返せば、それ以上言わずとも笑われて終わる。

(そう言えば、今日、非番だったんだよなあ)

 今更思い出す。恋人とスケジュールが合わず、今日あった予定らしきものは友人とバスケや、そういったものもなく、少し調子の悪かったPCにぼやいたら知人から「メモリ足りないんじゃない?」と言われたので、それを探しに買いに行くか、と思って街に出たところで、昼はパスタにでもしようかと思っていた程度だったので、今から再開する程でもないかとも思う。
 折角来たのだし、少しだけ、と仕事部屋診療室へ向かい書類に手を着けて椅子に腰を下ろしてしまえば時間は溶けた。

 空腹を思い出して集中力が途切れたのは一時間も経った頃だった。

(そういえば、茜さんもお昼まだかな?
 疲れてるだろうし、一回、帰らせた方がいいのかなあ)

椅子から立ち上がり、病院前のカフェに一緒に行かないか、誘ってみようとスライドドアを開けた瞬間、小走りに廊下を抜けて行く茜が目に入る。

「あ、にいちゃん」

「あれ、茜さん? どこか行かれるんですか?」

「そうっちゃ、そうだし、そうじゃないっちゃそうかも?」

要領を得ない茜の言い方に、リチャードは疑問符を浮かべた。
「? トイレです? それだったらそこの角を右に行くと多目的――」

「いやあ」と茜は照れたように頭を掻いた「そうじゃなくて、ちょっと寝ちゃってさー」

「お疲れなら、一度、お家に戻られては?
 何なら俺、今日このまま居ますし、何かあったらちゃんと連絡しますよ?」

「うーん。すでにもう何かあっちゃってんだよねー」

 あはは、と茜は肩を竦めて諸手を上に。
 敗北したものの、敗北感には負けていない、そんなジェスチャー。
 だが、茜の態度から緊急度は高くないと判断したリチャードは、茜が続けるのを待った。

「寝落ちしてる間に、逃げられちゃった☆」
 てへ、と茜は舌を出し、
「はっ!?」
 驚いたリチャードの顔に吹き出した。


「ええー」

 何か言おうとして、何を言うべきか考えるもすぐには思いつかず、時間稼ぎにもならない声を上げて、リチャードは空っぽの病室を見渡した。

「煙草かなあ」

「見てきたけど、いなかったよ」

 携帯端末を弄りながら、茜がぼやく「あいつがふらふらしてんのはいつものことだけどさー」

 ふと、茜は端末から顔を上げる。真っ青な、それこそ宝石と間違うような双眸に見抜かれて、一拍喉が止まる。

「……え? 何?」

 真摯な瞳。真っ直ぐに見抜いてくる視線。全てを見逃さない緊張感。
 だが、そこから溢れた声は酷く優しく響いて、安堵してすべてを頼ってしまいたい欲求に駆られる。
「茜さん、怒ってる?」

「へ? そりゃ、ニキが馬鹿やってんだから、怒ってるよ?」

 ざわり、冷たい場所から暖かい場所に突然放り出されたような、空気の変化に肌が戸惑うような。

「うん。ニキ君が何しても、茜さんは、いつも楽しそうなのに、今、苛々してるみたいだから」

「さすが精神科医」思わず出た声は乾いた氷。合わせて浮かんだ口元の笑みもまた同じ温度。
 敵に見せる笑み――自覚してすぐに消す「そお? いつも通りだけど。
いつも通り、ニキが何したんだか、怪我して来て、いつも通りに回りがわーわーして、そんなんあいつは何も気にしてなくて、なんか違う?」
 自分は変わらないと言うように、諸手を広げてみせる茜を見るリチャードの目は変わらない。
 温和な、相手を安心させる、この人間は信用できるという確信を得る。
 それに委ねてしまえる程、素直にも大人にもなれない自分を茜は自覚している。
 素直な大人の態度で申し出れば、決して悪いようにはならないことも知っている。
「なーんもいつも通りじゃん?」

 いつも通りに笑えているか。
 違和感はないか。
 相手を騙せているだろうか。
 この腹の底の煮える汚物のような感情を。

 リチャードはいつものように微笑んでいる。ヒーローがそうするように。
「そうですか。じゃあ、僕が疲れてるのかな」

 差し伸べられる嘘まで、優しい。

「にいちゃん、今日、非番だったしね」
「年かなあ。でも、ニキ君、心配なんで、ちょっと見た人いないか聞いてきますね」
「あ、じゃあオレも――」
「茜さんは戻ってきたら、ニキ君、捕まえといてください。
 駄目そうだったら、警備呼んじゃってくださいね?」
「あ、平気平気。これあるから」
 そう言って茜は愛用のスタンガンを手に持った。
 ばちばちと端子の間を走る電圧に、一瞬、反対されるかと思ったが、曖昧に微笑すると扉の外へと流れて行った。

 ぱちぱち、電撃を眺めてから、それをつなぎのポケットに流し込むと、空になったベッドへと腰を落とした。
 暗がりの病室。まだもやもやとするそれをどうにか消化する時間が欲しかった。

「にいちゃんには、ほんと敵わねえわー」
茜は抱いた膝に呟いた。


「あの馬鹿……」

 握りしめたカップがひしゃげる/こぼれる/流れるコーヒーは病院に来る前に買ったものだったので、既に熱くないが、怒りの温度はそれ以上。
 むしろ温い類いかもしれない。

 ミゲルはスーツが汚れたことより、床に液体をこぼしたことに先に気づく。
 何か拭くものを探す彼に茜はタオルを放り投げた。

「いーの? そのスーツ、高えんじゃねえの」

「大したことはない。それで、あの馬鹿は見つからないのか?」

「んー。まあ、あいつが見つからないのは割といつものことだけどねえ。
 今回、何にも持ってないからなあ」

 結局、元凶は見つからず、仕方ないので茜は部屋に戻ってみた。
 案外戻って来てるんじゃないかなと思ったが、淡い期待は消え去った。

 ソファの上の血痕は乾いて落とすのに苦労しそうなままで、床に落ちた血痕も、廊下に続く赤もそのままだ。ばたばたと出て行ったまま、何も動いていない。
 溜息を吐いて、つい部屋の掃除を始めたところで、ミゲルからの連絡があり、部屋の戻ったことを伝えれば、わざわざテイクアウトの中華を持って現れた。

 その片手にあったコーヒーは今、床にこぼれて、茜に片付けられるのを待っている。

(コーヒーって、血落としの効果あるかな?)

くだらないことを思っても口に出さなかったのは、コーヒーをこぼした”お兄ちゃん”の怒りに油を注ぎたくなかっただけで。

「どこに行ったか見当は?」
 ミゲルの問いは吸われるコーヒーが滲むタオルの上に落ちた。

 茜はタオルをソファーに薬液と共に馴染ませる。薄っすら赤く滲む。
「何も持ってねえからなあ。病院のカメラにも写ってなかったし、だったら街中の探すかなと思って」
 携帯端末でする作業ではストレスが溜まって仕方ないと、茜はリチャードに告げて帰った。
 当然「にいちゃんも、帰んなよ」と告げて。

 ミゲルの持ってきたテイクアウトを見て、今日、食べたものを思い出せないことに気がついた。
 ぐるる、茜の胃袋の不満に、
「片付けは俺がやるから、とりあえず食べてこい」
 応えたのはミゲルだった。机の上に置かれたままの紙袋。

 ぐるるん、胃袋は訴える。
 茜はそれに屈することにした「わーい」言って、今日初の食事にありついた。

「手を洗えよ」
 ニキの保護者と化しているミゲルにとって、茜もその対象らしく、茜は笑う。
 確かに酷い有様の手だ。石鹸をつけて擦れば、泡は赤茶色に染まる。
 洗い流せば、シンクの中を水にさらわれた。
 ついさっきまで、体内を流れていたもの。
 肩に掛けていたタオルで拭き、飲み物、と思って冷蔵庫から牛乳を取り出す。
 カップに注ぐ。白。ホワイト――血の気を失う肌の色。趣味の悪い連想ゲームは飲み下す。

 胃の中に何か入れれば、ずっとあったが、気づく余裕のなかった吐き気が和らいだ。
 椅子の上にはあぐらをかいてフォークを手に、紙箱を開けば炒めた麺と野菜のような肉のような――ただ唾液は溢れた。

 きっちり部屋の掃除を始めたミゲルの背中を眺めながら頬袋を膨らます。

一旦立ち上がったミゲルが茜を目に入れて「ちゃんと噛むんだぞ?」子供に言うようなことを。

「もごっ……んっぐ、いやガキじゃねえんだし」

 ミゲルは答えずに鼻から息を吐くが、次の言葉はなかった。
 茜も自分に対する小言は聞きたいわけでもなかったので、それ以上追求するのは舌の上の麺の味にすることにした。

 お兄ちゃん。ミゲルのことを誂って、茜は彼のことをそう呼ぶ。
 まるで保護者だと。
 大半は性格に依るものだろう。
 もしくは昔話に依存した話だろう。実際口に出して聞くわけではないが、茜の趣味と興味と、性格の一部と思える技能はハッキング。
 デジタルであればどこまでも止まる事なく泳いで行ける。
 そうして興味本位で調べて辿り着いたのはまだ彼が幼いと言える頃、失ったもの。
 決してそれを茜が口に出すことはない。
 だがある程度見当はついているのだろうと、ミゲルも茜に見当を着けていて、お互い何も言わないのは、ただ単に言う必要がないからだ。
 世話を焼きたがり、入れ込み過ぎる、と茜は笑い、ミゲルはそれに苦笑する――少しばかり淋しげに。
 機嫌が悪ければ、お説教の相手が茜にシフトする。
 偶に巻き込まれるのもまた、面白いと思えば面白い。横で逃げるに逃げられない相手がいれば尚の事。
 だがそれは、今はいない。どこに言ったのか。てきぱきと部屋を片付けていくミゲルを眺めた後、窓の外へと視線が流れた。
 今日は佳い天気。公園の芝生の上に伸びたら気持ちよく眠れそうだ、と思う。
 温くを通り過ぎて、そろそろ冷たくなりゆく途中のカフェラテは美味いとも不味いとも思わなかった。

 ただの水分。生きるために必要なもの。味などどうでもいい、そう思っていた時期は確かにあったのだが、美味いと不味いを気にするようになったのはいつ頃からか。
 思い出せそうな、思い出したくないような、思い出してはいけないような。
 どちらにせよ、今ではない、昔。

 そう言えば、この部屋の主はまさにそれだな、と思う。
 高級な食材をふんだんに贅沢に使ったフルコースだろうと、道端で買ったホットドックであろうと、貰ったままポケットに入れ忘れて洗濯機の中を回ってきた飴玉だろうと、口に入れた時の顔は同じだ。
 それを美味いと思っているのか不味いと思っているのか、それもわからない。

「あいつなんで生きてんのかな」

 それは口に出したつもりはなかったが、自分の声を聞いて、口にでてしまったことに気がついた。

 ミゲルの怪訝な視線が、茜へと向けられる。
 不審そうな顔。茜が浮かべるのは全くの無表情。視線に気づき、自分の声が出ていることにも気づいていたが、頭はまだそれを認識していなかった。ぼんやりした、半分以上、夢うつつ――夢心地。

「あいつ、ほんとは死にてえのかな」

 生存に対する執着はまるで見たことがない。
 食事も酒も、娯楽も煙草は(あれはなんつうか、中毒だし)別としても、何の興味もなさそうな目の通りに、何の興味も示さない。興味を示すとしたら、それは生きるか死ぬかというボーダーラインの上を走ることだけに思える。
 命のやり取り――殺し合い、いつか死ぬかもしれないというよりも、今死ぬかもしれないという瞬間にだけは関心を示す。
 それに付随して、武器には興味を示すけれど、どちらかというとそれは新しい玩具を前にした幼児のそれに似ている。
 ただそれが玩具と呼ぶには物騒すぎる、作られた目的が逆方向なだけで。

(でも、基本概念は似てるのかもしれない)

 どこがどう、と明確に語れはしないが、茜のデジタル勘はそう告げる。

 茜は一と〇を愛するハッカーである。
 必要とあればクラックも好むが、基本的には一と〇が組み上げた情報郡を好きに駆け抜けることを愛している。
 そこに付属してマシンの拡張も楽しい。
 多分、ニキが武器に向ける感覚はそれに等しくなくとも何処までも近いだろう。

 目的を達成する為に、目標の旗までの道を短く快適に、愉しさだけを楽しんで、不便に指を突っ込まないで済むように、不快に足を取られずに済むように。

走者が走りやすい靴を探し選ぶようなものだ。

 こつん、現実に居なかった茜の頭を叩いたのは、ミゲルの軽く握った拳だ。
 角度と窓を背にしているせいで、その瞳はサングラスの向こうによく見えない。

「少し、休め」

大人ミゲルは茜にそう告げた。

「疲れてるだろう」

 ああ、どうしてこうも大人たちはこうも己のことしか考えていない子供に対してこうも寛容になれるのか。
 茜の口元が自嘲で歪む。小さく罵る気分でもなかった。笑みの歪みを正す。

「そっかな?」

 その笑みの防御力の低さは承知済み。
 だが、それでも張らねばならない薄い盾。
 ここで膝を突いて子供のように泣きじゃくってしまえば楽になるだろうか。
 それを茜は獣の笑みでねじ伏せる。
 それは我々のやり方ではないと。
 それはミゲルにも通じたようで、彼は子供が危険な遊びをやりたがっているのを止めるか見守るか考える間、眉を片方持ち上げてみせた。
 その舌で数々の悪党を無罪にし、同じように悪党に首を捕まれ漬け込まれた善人の辛酸溜まった樽に穴を開けてきたのだろうに。

 茜が予想したのはいつもの説教だった。
 自分にされるものではなく、ニキに対してされるもの。覚えているのは面倒くさそうな、隙きあらば逃げようとしている横顔。
 本気を出せば、どちらが強いのか。
 とはいえ、本気を出させない時点でミゲルの方が強いとも言える。
 単純に喧嘩をしたらニキの方が強いかもしれない。
 だが、ニキがミゲルに対して全力で殺しにかかることはまずないだろう。
 どこまでもどこまでも、あれだけ散々小言を言われ続けるのも、言い続けるのも、奇妙な関係だと茜は思う。
 いつもであればただ(またやってるよ)と思うだけかもしれないが、今にして思うと、酷く不思議でならない。

 ニキは誰にも何にもさして拘らない。
 どうでもいいと告げる言葉に嘘はない。
 例えば茜が何もかに捕縛され、拘束され、蹂躙され、無様に殺されそうになったとしても、茜を救う為だけに動きはしないだろう。
 何らかの利がなければ(あいつは動かない)、もしも何の利もなければ、助けに来る素振りすら見せないだろう。
 そもそも関心すら持たないかもしれない。
 それを茜は何とも思わない。
 それでいいと思っている。だが、と思う。
 もしも(お兄ちゃんに何かあったなら、あれは無駄に動きそうな気はする)。

 その理由を、茜は知らない。

 眼の前に居る男は知っているだろうか。

 情報は知っている。
 その男の経歴も、真実に重ねた嘘という真実も、データとしてデジタルに変換されたものならば、茜はそれをどこまでも探しに行ける。
 全て、とはいかずとも、それに近づく程度のスキルを持っている茜が得ている情報は――ミゲル・モラレス。
 生まれた家庭は幸福とは言えず、新たに得た養父母《家族》と、失っていなかった家族を失い、復讐の為に、自分が最も憎むマフィアものを利用する。
 珍しくもない話だと呟くことは本人を前にしてできようもない。

 誰もが後ろに引き摺っている背景のその一部の多くはデジタルに互換されて、本人が忘れきって思い出せもしないような、何気ない一言まで消えることなく保存されている。

 それを渡り歩くのが茜の趣味であり、生業である。
 ネット回線と、端末さえあれば、デジタルに変換された嘘も現実も真実も夢も虚構も、一と〇の間を現実アナログの中にある非現実デジタルの中を漂う何かを探して歩くが、最初からデジタルに変換されていないものに対しては酷く無力だ。
 そしてデジタルに変換されネットに上げた、どれだけプロテクトをかけてももはやそれは秘密にはできないと知る者は、本当に隠したいものをデジタルに存在させない。

 そう考えると、そう考えてそうしているわけではなかろうが、ニキの経歴を洗おうとするといつも殆ど見つからない。
 茜にも見つけられず、気づくこともできず、突破することもできないようなプロテクトがされているわけもなく、思いだしては探してみて、単純にそこに存在していないのだと毎回確認するだけに終わる。
 どこかの書類に、文字にされた経歴が存在しないのだから(あいつを幽霊って呼び出したヤツのセンスを褒めたい)、社会的にはもはや存在しないようなものなのだ。
 今になればそこのミゲルと自分とが暗躍して作り出したいくつかの身分というやつはあるものの、それよりもっと前であれば銀行に口座を持つことすらしなかったのだから、よくもまあ、と関心するしきりではあるが、社会の裏側にずっといたのであれば、困ることもそうないのだろう。

「なんで、ミゲルは、ニキの面倒見てんの?」

 何も考えずに口からこぼれた茜の疑問に、ミゲルは一瞬呆れた用に見える眉の動かし方をしたが、口元は微笑を湛えている。
 それは嘲りもなく、ニキを見る目に似ている。  同じ目で自分も見られていることは知っていたが、まじまじとそうされるとその整った顔立ちを再確認してしまい(――照れるな)。

「どうしてだろうな」

 そう、自分でも不思議だと呟くミゲルに「弟に似てるんだろう」と言う程茜も野暮ではなかった。
 それはミゲルが茜に語った後でなければ口に出せることではない。

「ただ」ミゲルの持ち上げた掌が茜の好き勝手に跳ねている短金髪を撫でつける「お前らの面倒を見るのは、苦ではないんだがな」

 整った顔立ちの頼りがいも経済力もある相手にそう言われては、流石に(照れる)。
 だが同時に口を突いて出た本音は「いや、それオレがあいつみたいに危なっかしいってこと?」そんなもの。

 ミゲルの表情は今度こそ呆れた。
 次に言われるだろうことを予想して、茜は頭の上に載せられた大きな手を痛くなく、かといって優しくもなく、振り払う。
「いや、言わなくていい。わかってる、わかってるって」

 言って、茜は「はあ」と息を吐いた。
 がりがりと頭を掻けば、自由気ままに跳ねていた髪が更に明後日の方向を目指しだす。
「わかったって。少し休むよ」
 負けた、と両手を挙げる。
 勝てないとはこういうことだ、とニキのように説教されなくとも、先に折れるしかないのだと、茜は降参を告げる。
 単純な戦力で言うのなら、どちらともオフィスワーカーの部類なので、戦えば似たようなものかもしれないが、忘れてはならないのが用心棒の存在で(木崎の兄ちゃん、あれでおっかねえからな)。

 茜の不戦敗宣言に、ミゲルは苦笑うように頷いた。

「何かあれば起こすから心配するな」

「はいはい。お兄ちゃんには敵いませんよ」

 立ち上がり、ベッドへと向かう。
 だだっ広いだけの部屋。
 転がり込んだ時は殆どと言っていいほど何もなかった。
 元々あったのは、元々あったものだと、ニキに聞かされた。
 同時に彼が自分で持ち込んだものと言えば、せいぜいがライフルぐらいだったのだと呆れると同時に納得した。
 何もない部屋。
 古いビルの開きっぱなしだった元スタジオ――通りすがりに貸出の札を見て、そのまま居着いているのだと、それだけの場所も、自分が持ち込んだものに友人知人たちが適当に持ち込んだもので溢れてきてごっちゃとしている。
 誰もが好きに出入りして、鍵も防犯も意味のないような状況で、借り主が誰だかわからなくなるような状況でも、一番奇特なのは隣の部屋に済む家主かもしれない。
 小言を言いつつも、追い出そうとはしないのだから。
 最も時折ぼられているなあと傍から見ていると思うのだが、借り主が気にしていないので、茜も気にしないことにしている。
 仕事明けに目付きの悪い(あいつ眠い時が一番目付きわっるいからなあ)赤毛の、178cmの首から入れ墨を覗かせた男を捕まえて、家賃をせびってみせるので、なかなかのツワモノだと茜は思うし、支払いを忘れたニキの代わりに部屋にいた茜が捕まって払わされた後にも、ニキにも払わせるあたり、なかなかの遣り手なのか、それとも少々(おボケになってらっしゃるのか、わっかんねえんだよな)――そこで端正な顔をした弁護士に相談に乗ってもらっているのも見ているのが(やはり遣り手なんだろうか)、茜は未だによくわからない。
(一番の問題点はあれなんだけどさ)問題の主はどこへ行ったか、気配もない。

 茜はニキに盗聴器を仕掛けたり、各所にハッキングして盗撮したりとしているが、それは所詮、お互いのゲームのようなものである。
 ニキに盗聴器やGPSを着け、気づかれないようにする/見つけたら潰す、捨てる、時にそれをトラックの荷台に放り投げる――傍から見れば、茜がニキのストーキングをしているだけに見えるかもしれないが、茜にしてみればそれは遊ばせてもらっているようなものだ。
 だから、茜は今は諦めることにした。
 ミゲルの指摘の通り、確かに疲れているし、動揺はまだ肝臓の裏側で燻っているようであるし、本調子ではない自覚があった。
 茜はため息を吐いた。
 部屋の隅に押し付けられた、堅いマットの上に倒れ込む。このステータスでは(本気で雲隠れしたんなら、見つけらんねえわ)。

 見ていると傍は思うかもしれない。
 茜にしてみれば、見せてもらっているようなもので、あれが本気を出したなら、それこそ幽霊を探すようなものだと身を持って知っている。

 だからといって諦めるわけでもないけれど――堅いベッドに沈み込む、黄色いくまのぬいぐるみハッピーハニーベアーの柔らかな腹に顔を押し付けて、そう錯覚するように茜の意識は生温い闇の中へと、とぷん、爪も残さず飲み込まれた。


 もう少し、ごねるかと思ったが、予想外にもあっさりとベッドに向かった茜を見て、ミゲルは今日何度目かわからないため息を吐いた。
 それから、机の上に忘れたままだったテイクアウトのカップコーヒーを手に取る。
 口の中を潤す、冷めたソイラテ。
 もはやアイスの域にたどり着きそうなものだったが、常温になるにとどまっているのは、単に季節のせいだろう。
 もしも今が真冬だったなら、そうなっていただけのこと。
 冬に凍る街も夏に焦げる街も歩き回るのはどちらも苦であるのだから、日の光に軽く汗が滲んでもそこを撫でていく風に涼しさが残って感じられる今の過ごしやすい季節が一年中続けば良いものをと叶いもしないことを願う。
 高いスーツに、安いスーツ、依頼人の趣味や嗜好、その経済力に合わせて変えるものの、安物のスーツで街を練り歩くのに夏も冬も無駄に体力を取られる上に、動きづらい最悪さ。

 ソイラテを半分まで喉に流し込んで、目を戻せば茜はすでにベッドの上で布も掛けずに寝息を立てている。

 理由は知らないが、普段からすると(らしくないな)単に疲れているのかもしれないとも思う。
 病院からここまでにした話の中で、三日程ろくに寝ていないと言っていたから、当然かもしれないが。

 何にせよ、違和感。  何に似ているかと思い出すのは古傷。
 自分にもあるようなもの。誰にでもあるようなもの。
 思い出したくないことを思い出してしまう――治らない傷を忘れていたのに思い出した瞬間に襲ってきた痛みのようなものを、ごまかそうとしている。
 そんな様はいくらでも見てきたし、それを利用してきたし、これからもそうしていくだろうが、茜に対してそんなつもりはなかったので、すんなりと休養を取ってくれたことに安堵すると同時、やはりそこに違和感。
 普段であれば自分の意見など軽く踏み台にして飛び上がってPCにかじりついて行くだろうに。

 茜が触られたくないもの。それをミゲルは知らないし、知ろうとも思わない。

 ただ、今日の問題の原因にはないかもしれないが。

 どこに行ったのか、もう一つ紙コップを握り潰す前に力を抜くのにまた一つため息をついた。
 別に珍しいことではない。
 あれが何も言わずにどこぞへ消えるのは。
 そもそもどこかに行くのに一言があった試しがない。
 それを考えると茜の(少々行き過ぎと思うことは稀……たまにあるが)発振器だと盗聴器の類いは重宝するのもまた事実で。
 だが茜の背にそこに落ちていた布を掛ければ、暫くは休ませた方が良いだろうと自分の判断に間違いを感じない。

 何があったのか、何が理由なのか先に言ってくれたら打つ手もあるというのに、どちらも何も言いはしないあたり、似た者同士なのか、と苦笑が浮かぶ。
 子供扱いするような年齢ではないことはわかっているが、どうにもそうしてしまうのは性分だろうか。

 片方は伸ばされた手の意味に気づいていない。
 むしろそれが自分に向けられていることを疑問がるか、自分に向けられていることに気づきもしない。

 片方は伸ばされた手を笑いながら払いのける。
 自分に向けられていることも、自分が助けを求めていることもわかっていながら、そんな自分を認めることができないとでも言うように。

 どちらがタチが悪いか考えれば、どちらとも言えないが、気づいていないより気づいているのに振り払う方がタチが悪いと言えるだろうか。

 すうすうと寝息を立てる顔は年相応か、それ以下か。
 少なくとも裏社会を強かに行きていく凄腕の情報屋には見えなかった。

 上着の内ポケットの振動に、ミゲルはその横を通り抜ける。屋上へと続く非常階段、そこに出て、振動を止める――通話。

「――そうか。いや、もう少しここにいる。
 今日の予定は他になかったろう。急ぎの案件以外は断っておいてくれ」

 向こう木崎へと告げれば、頷く気配がした。ただ一言、普段であれば自分が小言を言う立場なのだが「程々に」と忠告されてミゲルの頬を自嘲が掠めていった。全くままならないものだな、とひとりごちる。

 子供二人、手に余る。
 最も、子供と言うにはどちらもあまりにもそのカテゴリーから外れている。
 清く無垢で、守られ愛される存在として見るならば全く持って当てはまらない。
 人の命に対する価値などポケットに突っ込んだ一ドル紙幣より持ってもいない。
 ただ面白いからという理屈で蝶の翅をもぐように、単純な楽しみだけで、それをやってのけるというのは子供らしいと言えば子供らしいのかもしれない。
 もっともそんなことを思うのも自分の疲労感故かもしれないと、呼吸するようにため息をついてから、
「そうだな」
 電話の向こうの声の主に同意する。
 それに対して返る空気に潜む苦笑い。
「何かあったら、連絡してくれ」
 通話を切って携帯を上着の胸ポケットに仕舞う。サングラスを外す。
 遮光を失った世界は酷く眩しく、今更ながら疲労感。
(あれに対してこうなるのは別段珍しくはないが)
 半分以上癖のような動作で眉間を指で揉み込んだ。徒労感。

 どれだけの言葉を吐いて来たのかはわからないが、そのどれもが何も響いていないのは今に始まったことではない。
 むしろ始めからその通りだ。

 あれは何年前だったか、数字にしてみると既に長い時間が過ぎていることに今更ながら気がついた。
 ついこの間のように思い出せるというのに。

 ついこの間のように思い出せるあの目は何も変わっていない用に思える。
 何も写していない。
 何も見ていない。
 そこに自分が反射しているのはわかるが、それでも、それ以上に、認識されているのか、そこがわからない。

 最初に会った時から、何も変わらない。

 街のそこかしこにいる、自分の未来に何の関心も持たない瞳と、今しか時がないとでも言いたげな、刹那的な姿勢。
 過去すら既に興味もなく、昨日にも明日にも関心などなく、今日の夜すら続くと信じていない目は、今も対して変わらない様に見える。

(もう、そんなに経つのか)

 時間の流れの速さに、意味もなく焦りを感じたが、それは未だ目的を達成していないことに尽きるものであって、関係の変化が何もないことに大してではない。

 拘置所で会ってから、鑑みれば、それなりに変化を見ることもできる。
 基本は変わらないが、応用は変化したと思えるのだった。

 何も意味のない時間をただ無為に過ごしてきたわけではないという僅かな証明。

 握ったままだったカップをテーブルの上に置く。
 三分の一が残った中身とこれからそこに落ちていこうとしている泡の無言。
 窓は締めたままだったが、街を行く喧騒がガラスの向こうから光と共に流れ込んできている。
 一昔前であればただ治安の悪い地区であったが、故の土地・部屋の安さとが、既存の常識を受け入れない空気と相まってか今やデザイナーやアーティストな若者たちの憧れの街とも化している。

 そんな中であればそれ程、あれも目立たない。

 ミュージシャンでも目指す、そんな若者の一人に見える。楽器ケースに入っているものが楽器でないことを知らなければ。

 出会った頃はその辺りのちんぴら崩れか、これからそちらへ崩れていく人間だろうと思ったし、今もさして変わりしない。

 この部屋はだいぶ様変わりしたように見えるが。
 茜が来る前は気持ちいい程何もなかった。
 借りた場所のまま、といったがらんどうを埋めたのは本人ではなく、その友人たちだ。
 今となればごっちゃりとした、この街の風景じみている。
 幾人もすれ違い、まとまりがないようで、全体として違和感は覚えない。
 当の主は最初から変わらず、関心もなさそうに、持ち込まれるものを眺めるだけ。
 あまりにも何もなさすぎて、依然使っていた事務所が手狭になり、引っ越す際に処分するよりは、と持ち込んだソファとテレビはまだそのままだ。
 その部屋の一角で茜が拡張を続けるデジタルの王国を向こうにそれを眺めると時代が一つ二つずれているようにも思える。

 今回のようにしょっちゅう部屋を空ける主に変わって、もはやこの部屋の主はそこのベッドで寝こけている茜の方が相応しいかもしれないとも思う。

 いつ訪れても返事のなかった部屋に、茜が住み着いたのはいつからか。
 そうなってからはニキより茜に部屋のドアを明けられることの方が多い上に、話した時間自体は事実多いだろう。

(あれは、話すのすら面倒がる)

 いくつもある悪い癖のひとつだ。

必要なことも、不必要なことも、こちらから訊かなければ伝えようともしない。

 正直なところ、ただ疎まれているだけなのではないかとも思うが、茜曰く「それはない。多分、あれ、あれで、めっちゃ懐いてると思うよ?
 だって、そうじゃなきゃ、一発撃っときゃ終わりじゃん。口うるさく寄ってくるヤツなんてさ」

 そう言って茜は笑った。

 そう言われればそうかもしれないとも思うが、どうにも態度を思いなぞれば納得することができない。
 通りですれ違う前に思い切り道を曲がられて、追いかければ目も合わせようともしない。  もれなく何かをやらかした後だとしても。

 あれが怪我をして帰ってくるのは珍しくない。
そもそも暴力を呼吸するような世界であるし、あれの態度は同じく暴力を呼吸する輩を相手にすれば、そうなるのも納得のもので、その点に関しでも舌がたこに埋まるのではないかという回数、忠告しているが、それはまだ実を結んでいないことは今日のことでも確認できる。

 人の話を訊いていないのか、聞こえていないのか。
 その判断にも悩まされるし、頭痛の種には全く事欠かない。

 ため息。

 それからミゲルは近場の椅子に腰を下ろした。

 テーブルの上に広げられたままの雑誌に目を落とす。
 持ったままだったサングラスを胸ポケットに差し込んで、仕事道具も何もなく、しかし立ち去るには腰が重い。
 一度しまった携帯をもう一度取り出して、それに目を落とす。
 メールを確認……次の仕事の内容について・今の仕事の状況について・前の仕事の結果について……一通り目を通して、返信をして、もう一つ手帳を取り出して必要事項を書き出して――そうしている内に時間が過ぎていく。
 液晶を凝視していた疲労を目頭を抑えてやり過ごす。
 時代遅れと言われてしまっても、どうにもデジタルよりアナログの方が好きだった。
 そこのデジタルの寵児にしてみれば笑いものなのかもしれないが。

 手帳をしまい、万年筆の蓋を閉じ、胸ポケットに差し込みがてら、視線を投げた先の茜は先程と変わらない体勢だった。

 若干不安になったが、その肩は安らかに上下しているので掻き消えた。
 一応と思い、知り合いの医者に連絡を取って見たが、特に変わったことはないようで、当たり障りのない挨拶を交すだけに終わる。時計を眺める。
 一五時前。
 一旦事務所に寄ってから帰るかと思う時間帯。
 そう遠くないので、たまには歩くかと思う頃、のそり、茜が起き上がる。
 半分以上閉じた眼。
 覚醒しきっていないのは見ての通りで、上半身を起こしたままぼんやりと壁を眺めて、それから部屋の中をのったりと見回した。
 ソファの上、自分の机周り、部屋の中を一周する途中で、ミゲルに顔を向けた辺りで止まる。
ぼんやり、がだんだんと覚醒してきたか、自体を思い出したか、その時間はあれに似ているとミゲルは思う。

(PCの起動画面を待っている気分だ)

 ぱちくり、茜の目が瞬いた。

 今日の出来事を思い出したのだろう。
 寝ぼけた眼は緩やかにいつものものへと変わりゆく途中で、ぼりぼりと頭を掻きながら、枕元に放置したままだったのだろう携帯端末で時間を確認する「うえー、結構寝ちまった」

「二・三時間じゃ仮眠だろう。もうちょっと寝てても良かったんじゃないのか?」

ミゲルの提案に、茜は「んー」とそれを吟味するも、「そうかな。そうかもな。そういや、お兄ちゃんはちゃんと寝てる?」

「一応な。少なくとも、そうそう徹夜はせんよ」

あっはっは、と徹夜というよりは昼夜逆転生活が普通担っている茜は笑った。

「世間と相手する仕事は大変だねえ」

「就職先が欲しいなら、探してやらんこともないが、朝起きるのはまず基本だからな。
 少しは規則正しく生活したらどうだ?」

「ははー、そうなー。たまにはいいかもなー」

 笑い合う、会話を交わす、底には互いに不穏なものを抱えつつも、穏やかな時間。
 敵わないと茜は思う。それを伝えることはないが。

 思った通り、ミゲルはそこで腕時計を確認しては「そろそろ戻るよ」と予定があるように言った。
 もしかしなくとも、自分が一人になりたいことを見抜いているのだろうなと思う故に、どうにも敵わない。だから、茜も口をつく。

「もっとゆっくりしてけばいいのにー。  オレ、寝ちゃったし、何もしてないんじゃん? 働き過ぎなんじゃね?」

 茜を仕事中毒とするのなら、ミゲルもまた仕事中毒で。
 軽く苦笑を浮かべたミゲルが部屋を後にするのを見送って、茜は机の上に忘れられたままだった元コーヒー的な液体の入ったカップと食べ散らかしたままだったテイクアウトの入れ物を探したが見当たらない。
 簡易キッチンの方を見やれば綺麗に片付けた形跡があって、やはり「敵わねえ」と茜は呟いた。

 とはいえ起き抜けに何かを腹に入れたかったので、少々残念ではあったが、冷蔵庫を開ければ残りはきちんと入れられていたので、適わないは「恐るべし、お兄ちゃん」上位互換された。手を伸ばす。
 ついでに水を取り出して、直接口を着けた。残りが一本もないことに気がついて、ウォーターサーバーを設置しようか考えていたことを思い出す。  毎回いつも何処で忘れてしまうのだろうと思いながら、それで空になる中身を見て、買い出しに行くかと扉を閉めて、そこで忘れた。

 冷えた麺と水を胃に収めて、部屋の中を見回した。

 そこにあるのは寝る前と――ミゲルが来る前より幾分片付いて見える――変わらないつもの部屋。普段であれば他の誰かが何か騒いだりしている脇にあれがいる部屋。

 どちらも居ない。

 誰も居ない部屋はやたら静かに動いているのは光だけに思えて、外の喧騒が遠く聞こえた。

 空き箱をゴミ箱に投げ込んで、茜は一つ伸びをした。

 ぺたぺたと裸足が床を歩く音は数メートル。向かった先は自分の作業スペース。
 机に椅子にPCとモニターが茜の趣味と効率を目的に後は趣味を含めて構築・改築・増設を繰り返して発展途中の茜の王国の一つ。
 そこにいる茜に茜が想像できることで、茜にできないことは、ほぼ無い。
 椅子の上にあぐらをかく。
 待機状態だった各機は主が一つキーを叩けば目を覚ます。
 したり、茜はまだ少し頭の隅に残っていた眠気を忘れ去る。
 何故そうしているのか、と問われれば答えは一つ。
 単純に(とても楽しい)。
 何が楽しいと訊かれれば、これらが楽しい。
 キーボードとマウスから――自分の指と頭の回転を主原料に、ネットワークの間を泳ぎ進む。
 それが楽しい以外の他の何でもない。
 機械を弄るのも楽しい。
 エンジンも楽しい。カメラも楽しい。端末を弄るのも楽しい。何もかもが楽しい。
 もしもこれがいつもの様に何も起きていない状況で、なんとなく暇な一日で、手元にワインの一本でもあって、ふといつもの悪戯心で、あれをこの街の何処にいるのか探しだすというのなら、もっと楽しかったろうに。
 あれが何を考えているのかを茜はよくわからない。
 ただ見ていて面白いから、ただただ眺めていたいだけだ。
 それが時折こちらを認識するというのであれば、これ以上の楽しさはない。
 ただただそれだけで良かったのに(どこで何してんだよ、あいつは)

 舌打ちを一つ。まずは自作のプログラムを起動させる。
 この街の至るところにある監視カメラ、それ以外にも――必要とあれば個人の携帯のカメラも利用できるが(今回はまだいいかな。とりあえずスタンダードに走らせてみよう――に特定の人物が写り込んだならアラートを鳴らして知らせると同時に、そのポイントを記録して、後は茜の頭がそれらを見て次にどこに向かうか予測する。
 予測に関してはプログラムを組むより自分で考えた方が早いので組む気がないだけの、テレビで見たのとちょっとした政府機関に潜り込んだ時に盗み見た経験を発展させてみたらどうなるだろうと生まれた副産物。
 暫く走らせてみるのを眺めていたがすぐにヒットしなかった。
 それもそうだと思う。
 相手はこちらの手を知っているし、幽霊とあだ名される程度にはやたら勘が良い。
 もはやそれは才能なのではないのかな、と茜が辟易する程度に、盗聴撮――そういったことに鼻が利く。
 元々あったのかもしれないが、それを鍛えてしまったのは当の本人で。普段のゲームの傾向から知っていること(あいつ本気出すとまじ追えねえ)に茜は溜息ついた。この時ばかりは『お兄ちゃん』の気持ちがよく分かる。
 そうして彼もそうだが、自分も何故こうも付き合っているのか時折不思議になってしまうのだが、自分の『にいちゃん』を思い出して苦笑する。
 どうしたところで楽しいということは、つまるところは単純に好きなのだから仕方ない。
 それがどうにかなったなら、こうも執着しなくなるかもしれないが、それは幸せなのだろうか、不幸せなのだろうか。
 わからない。ただ何かをしているのならば、それを見ていたいと思う欲求に茜は従う。

 それだから何をしても茜にとって優先事項は揺るがない。

 一つのモニターにそれを表示させっぱなしにして、次のモニターに次のプログラムを起動させる。
 特に珍しいものでもなく、ただちょっと弄っただけのメールソフト。
 知り合い、時折使っている情報屋、その辺りに送るメールの文面を考える。
 五秒で思いつく。叩き込む。一斉に送る。――猫が病院から逃げたから見つけたら教えて。

 盗み見された場合のことを全く考えなかったわけでもないが、半分以上は冗句な文面だった。
 知らない者には文字通り、知る者にはいつものことだ。

 さて、と茜は背もたれに寄りかかる。

 とりあえず待ってみてもいいのかと思えば、寝る前に走らせておけばよかったと今更にして思った。
 寝てしまった時間は数時間。
 無駄とはいわないが、同時にできることを平行させなかった自分の判断が悔しい。
 いつもであればそうはしなかったはずだ。
 だから今しくじったと思っている。
 やはり本調子ではないのかもしれない。
 頭の隅でちらつく昔話は思い出そうとしていないのに、思い出さないようにしているのにもかかわらず、(ブラクラみてえ)ちらついている。

 頭を振って、それを払えるわけがないと思っている時点で、それは無駄だった。
 違う、あれは違う。あれはあいつの怪我であって、よくあることで、いつものことで、何も珍しくはない。
 たまたま倒れかけた先に自分が扉を開けただけの偶然に過ぎないというのに、どうしてこうも心臓がうるさい。

 忘れる。
 忘れたと思った。
 だが忘れていなかった――それが面白くない。
 もう昔のことだと思っていたのに。

 だからいつもより反応が遅れる。
 仕方ないとは思わなかった。
 思えなかった。

 アラートも出ない。引っかからない。
 こちらの手を読んでいるのだから、それも当然か。
 そして同時に、こちらに知られたくないと思っているのだと気がついた。

(今更過ぎんだろ)

 苦笑にはならなかった。
 嘲笑にしかならなかった。
 自分に対してか、それ以外のものに対してか。
 いっそ愛想を尽かされた方がすっきりする。
 茜は細く息を吐いた。
 肺の空気が全部なくなって、もう吐き出せなくなるまで。
 ならば追わない方が正解なのではないのだろうか。
 必要と思えば、こちらに連絡があるだろう。

(……でも)

 振り払えない脳裏にこびりついた記憶は思い出と呼ぶ程美しいフィルタをまだ通り過ぎていない。
 もう一度寝て起きたら、いつも通りに戻ってきているのかもしれない――そんな程度のことで、躍起になる必要はないのかもしれない――でもざわついてどうしようもない。

 ため息。
 立ち上がる。
 頭はうまく回らない。ここに座っていても時間の無駄。
 とりあえず、飲み物でも買いに行く。どうせだからついでに買い出しでも行くかと、いつもの鞄を肩に掛けた。

 部屋の外へ向かう。
 夕暮れ時。流れ込む日差しは血のように鮮やかだ。
 足取りと頭は重たいが、このまま部屋に居続ける気分にもなれない。

 高架の下の道は降りると迷路のようだなと、いつも通る道に思う。
 少し入り組んだ先に入れば出てこれないという点では確かに迷路かもしれない。
 脱出口が初めから設定されていない(現実はいっつもハードモードだわなあ)。
 てくてく、ぶらぶら、いつものマーケットを目指して歩く。
 少し遠い。
 この辺は不便であるが、あれの行動範囲を鑑みると近いのだろう。
 そんな不満を聞いたことがない。
 出不精で面倒くさがりで無気力極まりないのに、ふらふらぶらぶら、出ていったなら何か問題ごとを起こしては、巻き込まれては、拾っては。
 今もそうであるなら、それを見逃し続けている今が虚しい。
 どうせなら特等席でそれらを眺めていたいのに

 不満が顔を膨らませている。

「ばーん!」
 その不満の風船を破裂させたのは舌足らずの声だった。
 記憶を巻き戻せばたたたと後ろから走ってくる音が聞こえていた。
 驚きで息を吐きながら、両手を挙げる。
 振り返るまでに顔にいつもの笑みを用意する。

「やられた」

 振り返って、そこにいたのは良い学校の初等科に通う子供だろうと思う風体の、手にした水鉄砲――くらげと呼ばれるその子供は愛らしく首を傾げた。健康的な膨らみの頬に吊られて、茜も首を傾げた。

「どうした? くらげちゃん?」

いつもならその引き金を引いてくるのに、くらげはメトロノームのように反対側に首を傾げた。
「あかねちゃん、お腹でも痛い?」

「へ? 別に、痛かねえけど、くらげちゃんこそ、どしたの?」

 笑う。いつもの様に。だが大人にも見抜かれた不調は子供にも見抜かれた。
 それが肉体的なものではない、というところまでは経験がなかったのかもしれないが。
 いや、気づいているのかもしれない。ただそれをうまく伝えられないだけで、子供は子供だと思っているより大人だ。

「そう?」くらげは首を縦にする「お腹、痛くない?」

「痛くないよ。くらげちゃん、学校帰り?」

「そう。帰り道。寄り道して帰るの」
 話題の変換にすんなりと子供は付いてきてくれた。
「あかねちゃん、ひとり?」

 後ろを覗き込んで、くらげは不思議そうだ。つい茜も後ろを振り返ってしまう。

「ん? そう。ニキなら今いないよ? 何か用あった?」

「今度こそ一緒にプールに行こうって、うんって」

茜はつい微笑んだ。一生懸命、何でもない事柄を世界的大ニュースのように手振りを交えて伝えようとしている様がまず微笑ましい。

「やっと言ったから、だったらこのまま行こうって、ニッキーn」「は?」

茜の顔の微笑みから驚きと怒りとを混ぜた絶妙な表情に、万歳の形のままくらげが止まった「?」

がしり、茜がくらげの肩を掴む。
「ニキが、プール行くって?」

「う? うん? 今、そこで会ったから、そろそろプール開きだから、ニッキーも行こうよって」

「そこ!? 今!?」
 互いの鼻先がくっつきそうな距離に迫る茜にくらげは真っ青な目を見開いて、そこにくっきり茜の語尾についていたのと同じく感嘆符つきの疑問符を浮かべる。茜の勢いについていけないものの、くらげはこくりと頷いた。

「う? そこのところで会ったから、あかねちゃんも一緒に行く? 温水プール」

「そこ!」
 茜はくらげから手を離すと、全力ダッシュにてくらげが指さした方向の角へと。
 ニキに対して茜が奇妙な行動を取るのはいつものことだが勢いがいつもより強かったので、茜の後をくらげも追うが、本気度が違うのかすぐに追いつけなかった。
 角を回ったところで茜は仁王立ちをしていたので追いついた。肩で息をして通りを睨みつけサーチしている茜の横に回り込んで見上げれば、鼻息。

「――くそ、いねぇ」
 舌打ちと唾を同時に茜は吐き捨てた。
 振り返る、見下ろす、叫ぶ先はくらげ「今っていつ!? そこってここ!?」は勢いにまけてこくこくと頷く。
「ってことは!」
 茜のつま先が、ざりゅん! 路面を擦って回転する。
 方向を定めて走り出す。向かう先は我が家。
 今出てきたエントランスへ突撃して、階段を段飛ばしで駆け上る、部屋の扉は開いている。
 口の端がむず痒い。腹の底は波立っている。

「こるぁぁあ!」

 扉を力の限り叩き開けた。中にいるべき背を期待して――誰も居なかった。

 虚脱。今更、掌が痛かった。
 力を入れすぎた。軽い擦過傷。
 爪は剥げなかったことを確認する。
 攻撃力は落ちていない。キーボードを叩く速度に影響はない。
 マウスを転がす速度にも。

(……でも気になるから何か巻いとくか……)

 包帯の類いはストックがある。
 テレビ横の本棚、その周囲に確立された世界をどこにおいても描き出す美少女フィギュアの横のケース。
 わかりやすく赤十字を描いた箱ではなく、DANGERと書かれた棚を選んだのは趣味。
 銃弾と手榴弾の玩具は握るとぴーぷーと音が鳴るソフビ製。
 手が触ってその音が鳴れば、何か探しものをしている時のアレの顔が面白そうだと入れたのは自分であったが、自分で遭遇する気持ちというのは(腹立つわー)。

 追いついてきたくらげの額に手榴弾を投げつける。
 ぴぺぷ、間の抜けた音をくらげは目を大きくして受け取った。

 中身、探す、見つからない。

「ぬあっ」

 箱の中を覗き込む。部屋の中の物を目で探す。
 ついさっき部屋を出ただけ。時間にするなら一五分程度だ。

 ないもの/あるもの。
 その間に無くなったもの=救急箱の中身+部屋の隅に立てかけてあった楽器ケース。
 その間に増えたもの=見覚えのないスウェット、脱ぎ散らかされたままの。

 それだけなら通常運転だと思うかもしれないが、盛大に茜は子供の前であることを考慮しないFワードで舌を打つ。
 だん! 棚に拳を叩きつければ、箱の中身が床に落ちた。

「あかねちゃん?」
 心配そうに偽物の手榴弾を抱きながら、くらげがその顔を横から覗き込んだ。
「ニッキー、どっか行っちゃった?」

 室内を見渡して、そんな子供の声に、茜は鼻から息を吹き出した。
「あのヤロウ、オレがいなくなるの待って、荷物取りに来やがったってんかよ」

 思い切り奥歯を噛み込んだ。
 いやこれはただの偶然なのかもしれない/そこまで考えてはいないだろう/そこまで自分を外に起きたいのか/指先が震える程の怒りは久しぶり。

「ッ、何考えてんだッ」

「いつものことじゃないの?」

 きょとんとしたのはくらげの顔で、頭の上にニセ手榴弾を載せてみせる。
「ニッキーが、何考えてるかわかんないの」
 くらげはわかるけどね? と子供は自慢げに鼻を膨らませた。

「それは、まあ、そうだけども」
 怒りは失せた。得意げな子供の顔を見て、リミッターとしてはとても優秀だと言わざるを得ない。
 現に、ほのぼのとした空気をここに持ってこれるのは大層な才能だ。

 へにゃり、その場にしゃがみ込むと、子供と同じ視点になった。

 その白いふわふわの頭を撫でる。  なんとなく「あんがとな」そう告げれば、何に対して言われたのかくらげはわからなかったようで、その綺麗な目を瞬いた。
 茜も何に対して礼を行ったのか、わかりやすく説明できないが、感情に偽りはなかった。

 わからずとも、茜の笑みに釣られたか、くらげも疑問を持ちながらも笑った。

「はー」
 息を吐き、持ち上げた腰に手を当てて、茜は深呼吸と伸びをする。
「さっすが、くらげちゃん」

 ぽんぽん、とその頭を撫でる様に叩く。
 わからないが褒められたことは単純に喜ぶ顔に、茜も微笑んだ。

「んー」視線はモニターを確認したが進展はないようだ「くらげちゃん、夕飯どうする?」

「う?」

「買い出し行くからさ、どうせなら一緒に食べてく?」

「うーん」尖らせた唇に指先を当てて、くらげ「パスタかなあ」

「じゃあ、それ行こう。作るのめんどくさいから、アンドレんとこ」

茜は同意した。

そうして、
「ま、いつものことだわな」
 そう思うことにやっと成功した。

Пустой аквариум

 どこまでも直線を目指してまっすぐに。

 その一途な推進力は人の命を、時にあっさりと引き裂きぶちまけて、時に多大な傷跡を残すものの命を奪いはしない。
そこを分ける線は加害者の能力(幸運)か、それとも被害者の幸(悪)運か。

 元より人を殺傷するために、人によって作られたその武器が放つ攻撃の前に、肉の塊も鉄の塊も無力。

 切り取り拡大された世界の中で、三つ並んだ瓶ビールの一つが砕け散る。
スコープがなかったことにした距離は2km。それを煙草を咥えて眺めていた赤毛の青年ニキがその眠たそうな瞼を少しだけ持ち上げる。関心。

「ほら、どうだ。すげえだろう」

 VRグラスを被って世界を見ながら隣のハッカーが鼻を鳴らし、胸を張る。
「2kmだぞ、2km。お前だって当たらねえだろ?」

 ふふん、と薄い胸板を張る茜にニキはその何も写していなさそうな目を向ける。
「オリンピックかよ」

 その返答はイエス。茜が半分しか見えない顔で満面の笑みを浮かべ、
「でも真ん中狙ったんだけどな。その隣に当たっちまった。誤差修正が足りないか」
 唇をへの字に曲げた。ハッカーとは完璧主義者が多いものなのか、誤差の原因を計算し直す。

 二人が居るのはゴーストタウンの廃ビルの屋上、忘れられた電光掲示板の下。吹き抜ける風は冷たい。
ニキの指が伸びる。掴んだのは近くに置いたままの瓶ビール。煙草を持ったまま、眺める。茜のVRグラスから伸びるコードが繋がる狙撃銃XTG-170108。そのスコープからの映像を見た茜が、手元のラップトップを介して放った弾丸は2km先の的を当てた。よく行く銃砲店の店主が面白いものが入ったと言い、興味を持った茜に買わされたそれ。ニキ自体は茜のようにハッキングが出来る程のITスキルを持ち合わせていないので、それが凄いものなのかどうなのかはわからないが、隣のハッカーが喜んでいるところを見ると、(まあ、すげーんだろうな)。

「で、どう使うんだ?」

 疑問。Wi-Fi経由でも可能ということだったが、だからそれが何なのか、というアナログ思考。

「どうって、これだけ当たるんだったら、トラップとして仕掛けておくとか?」

「そこまで標的を連れてくんのか」

「面倒だな」
 確かにそうだと、茜が考える。「じゃあ、待ち合わせ場所を指定して、先にこれを仕掛けておいて」

「それ、必要なんだろ?」ニキが茜が被るVRグラスを指差す。「ばればれじゃねーの。隣の部屋とかに隠れんのか?」

「そうだなー。それで」

「これは設置してから移動して?」

「……面倒だな」

「面倒だろ」

「待ち伏せするなら行けるんじゃねえか? 相手のパターンを調べて、よく通るところに設置しておいて、部屋でぬくぬくしながら待ってれば良くね?」

「終わったら取りに来るんだろ?」

「そりゃあ、行くよな」

「どうせ行くんだったら、終わらせた時に回収した方がはやくねー?」

 ニキの眉間に寄った皺が言うのは――これ、使えなくね?

 茜は「ぐぬぬ」と唸る。「でもお前にできんのかよ」

「んなもん無理に決まってるだろ。キロとか、そんなんできんのフローちゃんぐらいだろ」

「お前、毎回怒られるのにその呼び方変えねえな」

「こっちのが面白い」

「その態度でこの間、リチャード先生にも怒られたろ」

「あいつ強えーんだよな。弾、当たるかな?
 あそこ潰すなら、フローちゃんと先生を狙うより、マオだろ。あいつがボスだ」

 その口が笑っている。愉しげに。見つけた蝶の羽をもぐ子供の笑顔はきっとこれだ、と茜は思うが、自分も似たような顔をしているのだろうとも思う。自分の顔が笑っているのを感じる。

「トカゲさん家のボスはフィクサーだろ。金払いのいいクライアントなんだから、あんまりからかってやるなよ。いつか」

(死ぬぞ)それを口に出せない。その権限を自分は持たないと茜は飲み込んだ。それはそれで見てみたいという欲求を否定できない。その死体に触れてみたら、どんな感触なのか、その死んだ肌を指で撫でてみたい――病んでいるのは自覚した上で、それを否定しない相手もまた壊れているのだろう。自分の理想が形になって、そこに温度を持って存在している事自体、まるきり夢のような話だといえるのだから。

 草原の丘でピクニックでもしているように、ライフルを肴に、廃ビルの屋上で酒と煙草を転がして。

(こいつの脳みそと直結できたらいいんだ)

 VRグラスから伸びるコードを指でなぞった。アカウントとパスワードがあれば――人体には存在しない。

「で、どうすんだコレ?」

 瓶ビールに口をつけたまま、ニキが茜を見たので、茜の思考ゲームは落ちた。

「どうするって――、どうする?」

 茜の関心は新しい玩具で何が出来るかであって、どうするか、ではない。アプリの中身に興味があっても、運用には興味がない。ニキの半眼が向けられる。目の前に馬鹿がいる、という目。

「……返品できるかな」

「無理だろ。そういう店じゃねぇーし」

 クーリングオフなどの消費者の権利は保証しない/何があっても顧客の情報をどこにも漏らさない――そういう店。

「――――いくらしたんだっけ?」

 VRグラスを持ち上げて頭に載せた茜が恐る恐る訊く。新しい玩具に興奮して舞い上がった茜はうきうきでそれを持ち帰った記憶しかない。値段を見た記憶と、支払った記憶もない。

 事も無げにニキが言う。「ZERO」

「はっ、タダ!?」

「いや、持ち金が」

「はっ、ゼロ!? 何でお前それさらっと払ったよ!?」

「お前がブツ持って店出るからだ」

 ぐうっ、と茜が苦鳴を漏らして頭を抱えるのを他所に、ニキの指がライフルに伸びる。アナログな人間にとって、そのデジタルな機能がどう有効なのかわからないが。

「お前なn」

 顔を上げて、茜は口を閉じる。咥え煙草のまま、その指がギリギリまで削られた鉄を滑っていく様から目が離せない。抑える手も、支える腕も、そのどちらにも走る刺墨も、その上に走る新旧の傷跡も、目に掛かる赤い髪も、その安っぽいプラスチックのような目がスコープを覗く横顔も――その口元が小さく笑っている。

 新しい玩具に興味を持ったのは自分だけではなかった。

 その配線が自分の頭の上のVRグラスに繋がっている。慌てて茜はそれを装着し直す。視界がスコープから見えた物に切り替わる。(今同じものを見てるわけだ)自分の意思ではなく調整に動く視界への違和感に、茜の胸が高鳴る。手元はラップトップの上にある。地図、高低表、天気の情報を呼び出せて重ねる――仮想と現実が混ざり合う。VRモニターにくるくるとデータが重なる。2km先のビルの上に置いたビール瓶2つ。ニキの指が引き金にかかった情報も茜の視界に重なる。自分のものではなく、他人のタイミングで弾かれる引き金。放たれた弾丸はビール瓶に当たらず、その後の壁に撃ち込まれた。

「惜しい」茜が言った。そして思いつく。「なあ、もう一回」

「当たるわけねえだろ」

「次は当たるかもしれないだろ」

 茜の指がラップトップを跳ねる。それを横目に、ニキが再度、スコープを覗く。狙う。今の感覚に、感覚で修正を加えていると、それに何か違和感を感じる。

「何してんだ」

 ニキが問えば、茜が笑う。「面白そうなこと♪」

 いつものことだとニキは相手にしないことにしたのだろう。それ以上返答はなかった。ただ向こうの的を狙う。
(タイミングを合わせるとかしてくれたら楽なのに)思うも、それは茜も口に出さない。(まあ、そこはそれ、というやつで)
 ニキはヘッドホンを着けたままだ。曲は流れていない。茜の指がもう一つのアプリを起動させる。お手製の盗聴アプリ。それから入る音が茜の耳に流れ込む。いつも聞いている呼吸音、心拍。自分だけが知っている癖がある。
(弾く時に小さく息を吐く)

 小さな口笛のように。
 それを合図に修正を送る。
 スコープ/VRグラスの向こうでビール瓶が弾け、中の液体と共に崩れ落ちた。

「「おお」」
 二人、思わず声を出す。

「ひっひっひ」愉快極まりないと茜が妙な笑い声を漏らす。「どうよ、当たったろ。2kmだぞ、2km。当たった、当たった」
 茜の指が宙に踊っている。歓喜。してやったり。やってやったり。カタストロフに表情筋が崩れる。
「どうよ、コレなら使えるんじゃないのか?」

「どうだろうな。有線?」

「無線でも行けるって取説にあったぞ」

「回線通るんなら、お前以外もアクセスできたりすんじゃねえの?」

「ああ……、それはありそうだな。逆にハッキングされたら厄介そう」

「それどこまでガードできんの?」

「うーん。まあ何か考えれば出来るんじゃないかって思うけど、結局これっていたちごっこだからなあ。すぐに次に新しい手を考える奴が出てくるし」

 ぶつぶつと思考を漏らしながら考え込む茜はVRグラスを外して、ラップトップのモニターに目を落とす。そんな茜を横目に、ニキは新しい煙草を咥えると、スコープの向こうが目に入った。

 瓶はもう一つ残っている。

 覗く――先程の違和感が茜の悪戯によるものだとしたら――その違和感を合わせて狙う――弾く。

「ん? なに? 当たった?」

 自分の思考に没頭していた茜が浮上して顔を上げる。返事はなかった。

「え、当たった?」
 茜がグラスを戻す。
 そこに立っているビール瓶はない。先にニキと置いてきたビール瓶。残りはこちらで開けて、その辺りに転がっている。
「マジで?」

「まぐれだろ」

 ニキが言ったので、茜は返す。「まぐれでも当てるとかねえだろ」

「どうせもう当たんねえよ」
 そういうニキにそれ以上の考えも実感もないようで、茜はまぐれの確率を計算しようとして諦めた。数字でどうにもならないモノの方が楽しい。デジタルをこよなく愛しているが、アナログへの愛着も捨てられない。全てがデジタルで済むのなら、数多くある人類の苦悩が半減するかもしれないと思う。どこまでも0と1で白黒を着けた世界に悩みはない。そこに予測外はあるのだろうか。どこまでも予測の内であるのなら、デジタルに意味がないような気がする。

 例えば何気なく書いたペンのインクが紙に溢れるような――そう再現することはできる。ただそれは起こすべくして起こすもので、意図せず起きるものではない。そこに悲劇も喜劇もあるだろうが、観測する側としては、観客としては、思いもよらない出来事の方が面白い。

 茜は笑う。ニキが飲みかけていたビールの瓶を奪う。ついでにその唇に噛み付いてやりたいが、瓶の口に噛み付いた。

「ゴーストさんは、まじ人間ですか?」

 茜にニキが返したのは呆れた声と顔。酔っぱらいを相手にする態度。

 酒に弱くない茜であっても、ニキのペースに合わせて飲めば酔いが回る。「案外、酔っ払ってた方が当たるんじゃねえの?」

「お前はいつも酔ってるようなもんだ」
 ニキの言葉に他意はない。

 茜は酒瓶の口に舌を入れる。
「人生にはアルコールが必要だよな。シラフじゃ生きてけねえよ」

 奪われたニキが他の瓶を開ける。「酔っぱらいめ」

 奪った茜は素知らぬ顔。「で、どうするんだ? コレ」

「まあ、悪くないんじゃないか。デジタル系は外すけど」

「意味ねえじゃんそれ」

「邪魔」

「今さっき当たったじゃん」

「お前が当てたんだろ」

 ダラダラと日曜日の真っ昼間に、捨てられた区画で捨てられた建物の屋上で、人を殺す玩具で遊びながらの、酒と煙草と。平和と呼ぶには殺伐としているが、幸福と呼ぶには気恥ずかしい。茜が話題を変える。

「つーか、スカピンでどうすんだよ」

「別に、珍しいことでもねーじゃん」

「そりゃそうだけど……それもどうなんだ?」

 茜が呆れる。確かに別に珍しいことでもない。この男は物や金に対する執着がおかしい。社会性が損なわれていることは人の事を言えないので言わないが。

「お前何にステ振りして来たんだよ」

「何の話してんだ?」

 ニキがヘッドホンを外して首にかけたので、茜はビールを舐めながら笑う。そうしている時は彼が自分の方を向いてくる確率が高くなる。本人にしてみれば、煩くなって外した以上の意味はないだろう。

「お前もうちょっと慣れろよ。何か不満あるなら、言えよ、直すから」

「よくお前ら平気だな」

 耳を掻きながら、ニキが言うので、茜は肩を竦めた。

「オレはお前ののがわかんねーよ。何、ノイズとか煩いわけ?」

 訊いてみたものの、返答がない。茜は軽く首を傾げる。何と言ったものか思いつかないらしく、ニキは眉間に皺を寄せている。

「頭いてーんだよ」

「それはどうにもならんけど、慣れたら平気になったりしねぇの?」

 度の強い眼鏡をずっとかけているようなものだろうか、と思うも想像の域を出ない上に、医療的には素人なので断言はできないのだが。

「どうせなら、きっちり診てもらったらどうなんだよ。したらオレのアップグレードがアップグレードするぞ?」

「面倒だな」

「お前の病院嫌いは筋金入りだなァ。何回命拾いしてるんだか」
 茜の苦笑をニキは見ていない。それでいいと茜は思う。

――オレが見てる。

 茜は空にした瓶を置き、茜は立ち上がる。
「今日はいい天気だなー。海でも行こうぜ。海岸線、バイクで飛ばすの、気持ちいいぜ、きっと」

「一人でいけよ」

 返答はいつも通り。ここからゴネてゴネて、思い通りにするのもいつもの事。

Я шел.

お前は猫か。
そう言われることがないわけではないし、煙と何とかはと言われることが無いわけでもないが、つい、何となく、特に理由もなく、
彼はよく屋上や、非常階段、閉鎖された箇所であっても特に気にせず、本来であれば人が歩きはしない場所に居る。
別段一目を避けているわけでもない(避ける場合もあるわけだが)、気が向けば何となく街の上の方に。癖のようなものだった。
下に広がっていく迷路のような路地の間を上から移動していくか、その片隅に腰を下ろして煙草をふかして、それを残していなくなる。もちろん用があれば下の道を歩く。
彼にとって――他人に取っては通路ではない道も――ただの通り道で、故に「猫か」「煙か」「馬鹿か」と言われる理由の1つであり、面倒事に巻き込まれた際に逃げるルートの多さとも言える。
単純に上の方が風が気持ちいいのと、単純に下に広がる迷路のような町並みを眺めているのと、立ち並ぶビルの風景が何となく面白いというだけの理由で、彼は屋上の縁などにいたりする。見知らぬ人間が見れば、すわ身投げかと思うような位置に。

下を歩いている人々はまず上を見ない。
上下に対して人の視線はあまり動かないようで、上を――ビルとビルの間を人間が飛び越えても――まず彼らは目の前だけを見ている。それは当然で上から落ちてきたものを(例えば誰かが手を滑らせた窓際の花瓶を)避けろという方が無理な話だ。
そんな有るような無いような理由の元、彼はよくそんな場所にいる。
何故、と問われたら答えられない程度の感覚で、上を移動していく。

下を時折知り合いが目に入る。

緑色の頭にサングラス、カジュアルな服装、その横の黒髪の長髪、黒いスーツ、青いビニール傘。彼らは何やら言い争いながらも道を別れる事なく同じ方向に歩いて行く。その向こうに2人を目指して手を降って走ってくる子供(白い髪、レインコート、中折れ帽)の姿が見える。3人は合流するとやはり同じ方向に歩いて行った。

ひょろりと長い背筋、黒短髪に黒い服、頬に銃痕を貼り付けた青年はその腕を横の色味の薄い男の肩に回し、短く切り込んでツンと立たせている灰かぶりのブロンドを乱暴に撫で回しながら、凭れ掛かりつつ歩いて行く。方向は灰ブロンドのフラットの方向であるようだ。その腕に紙袋が抱かれているので彼の作る夕飯を集るのだろう。

路地裏の真ん中を歩く人影は、眼帯に悪趣味な派手なシャツ、今日日TVドラマでもお目にかかれないような絵に書いたようなチンピラのような男。大股で歩き、銜えていた葉巻を投げ捨てて、男は不意に何かに気づいたように走り出した。その背中を見送って位置を変えれば通りのカフェのテラス席で上等な服装、黒髪をポニーテールにして腰まで垂らしている女が機嫌悪そうに腕時計を見ている。机の上に置かれていた黄色い熊のぬいぐるみの頬を指で突いて溜息をついている風に見えた。

ショッピング区画では、短い髪を撫で付けた目つきが悪くカジュアルな服装が似合わない男と、その腕にしがみつき、抱っこ紐の中の子供に笑いかけている、黒髪に勝ち気な紫目の少女のような母を中心にした親子連れが玩具屋の前で談笑している。

横断歩道で紙袋を抱きかかえた金髪にサングラスをした体格の良い男。横断歩道を渡る老婆の手助けをしているお人好し。

高級ブティックが立ち並ぶ区画で見かけたいかにもな色男といかにもなグラマーな美女が紙袋を片手に絡み合ったままリムジンに乗り込んで行く。

走りだしたリムジン、その後に滑りこんできたリムジンから降り立った秘書らしきスーツの女、ドアが開けられてから降りてきた白い長い髪が流れる先の指に誘われて降車したのは黒い髪の少女。

オフィス街ではタクシーから降りた黒髪を撫で付けた人の良さそうな笑みを湛えた嫌味にならないが安物ではないスーツに身を包んだヒスパニック系の青年。その横に立ったサングラスの男だけがこちらに気づいて視線を寄越した。

背の高い短髪で体格の良い青年が前を見えないほど紙袋を抱えて、前を歩く痩せた山羊のような男の後を着いてゆく。気づけば前を行っていた男は違う店にふらりとした足取りで入ってしま、一瞬見失っって辺りを見回してから店内に後を追う。

路地裏のバスケットコートで赤い髪の少年は鉄パイプを振り上げて至極楽しそうに喧嘩の相手を叩きのめす。

ゴミ箱の裏から黒猫を抱き上げた幸薄そうな東洋人の少年。銜えていたキャンディーの棒をその猫に奪われて慌て追いかけていく。

その猫を抱きとめた短い金髪にラフな格好をした少年のような少女のような人間が楽しげに猫の口から飴玉を奪う。

その先、とりわけ治安の悪い地域の片隅で運悪く柄の悪い人間に絡まれている風の金髪の青年は先の少年のような少女のような人物と兄弟のように見えた。本気を出せば一撃である筈なのにまずは話し合いでどうにかしようとしているようだった。仕事で出歩いていたのではないので、長距離は勿論、中距離の獲物も持ちあわせていない。足元に落ちていた空き缶。それを投げた。位置エネルギーを加えて落下して来た缶にノックダウンされて治療対象者が増えた事に顔を上げた先にはただビルの直線と角しか見えない。

 

いつものように何となく、そんな高い位置に居た時、時刻はそろそろ夕刻に差し掛かり、沈んでいく夕日の光にビル群が射られ、長い陰が更に長く街に張り付いて行く。
街は夜に飲まれ、また違う顔を見せる。
切り絵のようになる瞬間、見上げた空を家路に着いたのか烏が羽を落として飛び去っていった。

Own Locks

「オレからアドバイスがあるとしたら」
自分の秘密基地の場所をばらすように茜は口元に人差し指を立てた。
「あいつのことはくらげと一緒だと思えばいいよ」

くらげ、と言われてまず思い浮かぶのは海に浮かんでいるあれだ。
その次に、共通の知り合いの子供思い出す。白く柔らかい髪に白く柔らかい肌、海のような青い目に、ビニールカッパと水鉄砲、ポークパイハットに白の半袖シャツ、マゼンタの濃いピンク色のネクタイ、黒の半ズボンをサスペンダーで吊って、白い膝小僧の下に長靴という独特のドレスコード。
茶目っ気たっぷりの笑顔で路地裏を駆け抜けていき、社会的には危険人物な大人たちと渡り歩く子供の名前はくらげ。
それと同じに思えばいいとはどういう意味だろうか、とリチャードは少しだけ眉根を寄せて目を細めた。

 

事務用の椅子に膝を抱えて体育座りをしたまま茜はモニターを眺めている。それはいつも通りの習慣そのものだった。いつもと違う点は、そこが自分の部屋(当然のように居着いているニキの部屋)ではなく、同じくモニターを眺めている人間が横にいるという点。見ている対象はいつもと同じニキと、いつもと違う対象はフィクサー。

(いや、こっちは『フローレンス』か……)

米国で確固たる地位を確立し、英国の後ろ盾を持つ組織の頭領が保護室の片隅で膝を抱えている様は想像していなかったが、その原因の一因が自分にあると気づいてしまうと、茜はさすがに不憫になってきて、病院内の自販機で買ってきたカップのコーラをちびりと舐めた。横で同じく事務用の椅子に腰掛けてモニターを見つめている青年の横がを見やる。
そこにいるのはリチャード・ソーン。フィクサーの恋人であり、カウンセラーである。この病院のルーキーとして将来を嘱望もされている、有能でまっとうな青年が暗黒街の一角に葉巻を咥えて猫を膝に乗せて尊大にふんぞり返ってプレジデントチェアにでも座っていそうな一マフィアのボスとそんな関係になっているのは不思議にも思うが、それは別の物語だろうと思考を変える。

コーラは炭酸が抜けだしていて、少しばかり温くなってきていて、挙句氷が溶け出していて、コーラだったものになりつつあるが、それもそれ。気にせず茜は飲み込んだ。

幾つか並ぶモニターは精神病院の患者の動向を確認する為につけられた物で。

「なあ、先生」

茜は落ちてきた前髪を再び持ち上げて結び直す。
何です?という顔を向けてきたリチャードに茜。
「後でいいんだけど、フィクサーに伝言があるんだけど、頼んでいい?」
「構いませんけど、何です?」
「すげぇ簡単なこと。だけどオレが言ってもあんまり効果ないかもしれないからさ」

リチャードの疑問符に茜は口元に指をあてて告げた。

「? どういう意味です?」
「まんまの意味さ」
茜はさも楽しげにモニターを眺めながら、椅子に腰掛け直して頭の後ろで指を組み合わせた。リチャードがニキから取り上げた携帯端末のロックを解除する。ニキがやりかけていたゲームが復活するが時間切れでゲームオーバーの画面に切り替わる。その得点に茜は吹いてから、自分の服のポケットにそれを流しこむ。
リチャードも自販機で買ってきたコーラを飲みながら、茜の次の句を待つ。
茜がにやにやと意地悪く笑いながら眺めている先のモニターにはニキが写っている。暴れる可能性がある患者の安全と、周りの人間の安全を確保する為に作られた保護室の中で、クッションだらけの壁に囲まれて、物珍しそうに足元を確かめている様子を見ながら、茜は笑う。

「あいつはただの馬鹿なガキだよ」

気づいてしまえば酷く簡単な事なのだ。
茜の言わんとしている事を飲み込み切れなかったリチャードはカップに口をつけたままだ。
茜が空になったカップを銜えながら器用に解説を加える。

「せんせーさ、くらげちゃんが病院の廊下走り抜けて、止まれなくてワゴンに突っ込んだらどう思う?」

「どう……って、『あーもう、しょうがないなー』とか、『だから走っちゃダメだって言ったのにー』とかかな?」

「だしょ?」と口から落としたカップを受け取って、茜。「それと同じって言うとまあそれはそれで問題あるんだろうけど、くらげちゃんに悪いし、くらげちゃんは馬鹿じゃねぇしな。でもまあ、そんな感じだよ」

茜の楽しそうな目がモニターを一瞥する。保護室の中をうろついているニキと、隅で膝を抱えているフローレンスを交互に見てから、呼気に吐息を小さく混ぜた。

「まあ、アレさー。なんてえの? せんせーならもうわかってっかもしんねーけど、オレが言うのも変なんだけどさ」
上手い言い回しはを探して、茜の指が紙コップの縁をなぞる。あの保護室のプロテクトを解除するコードなら3分と掛からずに書けるというのに、対人になると少々(大分)勝手が違う。言葉を探す――
「Er nicht normal aufwachsen.」
言葉を探しすぎてドイツ語になってしまった。
(やっべ)と思ったのには二通りの理由。
理由1.別段バレて困るわけではないが、出自に関する情報である事。
理由2.単純に通じねえじゃん、という事。
でもまあ、と思い直す。相手は優秀で有能な医師である。

「まあ、それはそうだろうけど」
茜の言わんとしたことを理解したリチャードが苦笑した。
「普通に育ったら、ああはなりませんよ」

「まぁ、なんてーの? 専門家に言う程ってか何だけどさ、なあ? 釈迦に説法っつーかさ、だけどさ? 気にすることねぇんだよ。アイツは何かこう、人が普通にコミュニケーションを取ってやりやってくる程度の事とか、そーゆーのをすっぽかして来てる残念な奴だからさ。人の気持ちとかそういうのわっかんねー、その辺のちびっ子とかわんねぇから、気にすることねぇんだよな、フィクサーもさ」

「そうは言ってもねえ……。
フローも、頭ではわかってるんだろうけど、中々難しいんだよね」

専門家を前に何を言ってるだろうと、気恥ずかしさが湧いてきて、茜が空になった紙コップの縁を噛む。
目の端でフィクサーことフローレンスを見る。なんだかあんまりにも可哀想な気がしたのと、カードの相性が悪すぎる事に、観客として面白くなさを感じたのと、
単純な嫌がらせから、

「じゃあ、もっと簡単な方法。せんせーだけに教えてやるよ」
今度こそ、秘密の技を教える悪童じみて、茜はリチャードに囁いた。
「この裏ワザはお兄ちゃんミゲルも知らないんだぜ」

後日。
仕事帰り、スーパーマーケットで買ってきた夕飯を入れた紙袋を片手に抱えて、リチャード・ソーンは帰り道を歩いていた。
紛うことなき一般人の帰り道姿と言った様から、彼がどこぞのマフィアのボスを保護室に放り込める度胸と器量と実力を持っているとは伺い知れない。
と、フェンスの横を歩いていて聞こえた日常的ではない音に首を巡らせる。上を走る高架、それを支えるコンクリートの壁はストリートアートのキャンバスと化し、侵入者を除外しようと建てられたフェンスを嘲笑っている。その合間。見える人影。複数。遠目に見える動きから喧嘩だと知れる。一般人たるリチャードは早々に立ち去るべきであるが、ソーン医師は怪我人がいるかもしれない状況を看過するのを良しとしなかったので、足を止めて、怪訝な表情を浮かべて見せた。
足を止めてみれば、複数対単体というのがわかった。そして、その内の一人に見覚えがある。できれば恋人に近づいて欲しくない人間。遠目にも鮮やかな赤い髪。ため息を吐きたい気持ちに、彼の保護者然としているヒスパニックの弁護士の事を思う。
ただの喧嘩ならいいか、と思う。見ている限りでは――本格的な訓練を受けた人間から見れば――ただの喧嘩に見えた。人を殺す事を目的とした格闘術の気配はない。だから少し見守ってしまう。殴り殴られ、蹴り蹴り飛ばし、よくある街角の喧嘩――

(あ)

と、そこでリチャードは紙袋を落とした。落とした拍子にスパークリングウォーターの瓶が割れて広げる泡立つ水たまりを他所に走りだす。

勝杯はニキに傾いているようだった。
ニキの膝が相手の顎を打ち抜いて、横から食らったタックルの主に対して肘を脳天へと落とす。崩れて落ちていった男の顔に脛を叩き込み、後ろから振り下ろされたガラス瓶に一瞬意識を手放すも、振り返り様に後ろにいた男の首元の中指を尖らせて握りこんだ拳を遠慮も躊躇も、手加減の類も何もなく全力で。
くぐもったうめき声は彼の鼓膜を揺らさない。飛び散った血に向ける視線もない。非情とは違う。単純で純粋なる無関心。
他人を傷つけることに呵責を覚える良心の不在。善悪の無さは子供の無邪気さに似ているとも言えなくはない。ただそれは子供が持つが故に――自身の行動からの結果を予測できない、暴力とも呼べない脆弱な腕力だからこそ許されるのであって、
それをそのままにして来たということは、殺意もなく人を殺せるということであって。

ニキは周りに崩れ落ちた相手達の真ん中に立ち、鼻血を服の袖で拭う。口の中に溜まった血と唾液を吐き捨てて、最後に残っていた敵にうっすらと微笑んでみせる。リチャードの位置からも見えたそれは、見つけた綺麗な蝶の羽を毟る子供のそれに見えた。通常であれば、それは駄目だと親なり大人に教えられるのだ。

『そーゆーのをすっぽかして来てる残念な奴だからさ』

先日の茜の言葉を思い出す。それを茜は楽しげに語ってみせた。
蝶の羽を毟る様を茜は楽しげに眺めているようにも思えた。

先日、茜に教えられた裏ワザを思い出す。
半信半疑であったが、躊躇している余裕はないが、力づくで止めるには距離がある。

対してニキはリチャードの登場にまだ気づいていない。彼とリチャードの間にはまだ立っている人間がいた。その敵に向かい、ニキが地面を蹴飛ばす。躊躇なく、頭部を狙う蹴り。よろめいた相手に対して追撃の大勢に、リチャードが叫んだ。

「――ニキ!!!」

出しうる限りの大声で叫べば、呼んだ先の視線がこちらへ流れた。一瞬だけ、目が合った。微笑われた。辞めろと言いたいのは通じたようだが、辞める気もないようだった。楽しい遊びの最中に入った遠い茶々だと、彼は気にしていない。
その態度にリチャードの温厚のマスキングが剥がれる。王者たる威厳を握りしめたまま、息を吸い込んで、腹から怒鳴る。

「――めっ!!!」

叫んでから、沸騰した羞恥がリチャードの頬を染めたが、効果はあったようで、きょとんとしたニキは止めを刺そうとした体制で止まっている。
(……ホントに効いたよ、茜さん……)
呆れながら、自分の恥ずかしさも合わせて咳払いで払うと、リチャードはつかつかとニキに近づいて、その襟首を掴んで、ぺいっ、と脇に投げ捨てた。
「は?」
今更、そんな声を上げたニキに対し、リチャードは、今になってこみ上げてくる笑いを噛み殺す為に表情筋を必死に駆使しながら、真面目ぶって告げる。
「ニキくんはそこでじっとしてなさい。やり過ぎです」
不満そうな彼に対し、
「ダメです。そこまでです。めっです」
ちえー、と詰まらなさそうなニキだったが、確かに効果はあるようで、てきぱきとリチャードは辺りで転がって呻いている怪我人を診る。死人は出ていなかった。その事に安堵して、次いで遅れてきた驚愕と、復活した笑いたい欲求に、腹筋に力を込めながら、リチャードは肩にかけていた鞄から応急処置用の医療キットを取り出して簡単な手当をし、やはり一抹の不安が残るので911に連絡した次いで、(やっぱり、こういうのは『お兄ちゃん』にお願いしよう)そこにしゃがんだままのニキに顔を向け、笑顔で携帯電話を耳にあて、
「――あ、ミゲルさんですか?」
逃げようとしたニキの襟首を素早く掴んで、状況を告げ、デジタルにも伝わる怒気にひび割れた「YES」を聞いて、通話を終える。
げんなりとした様子のニキにリチャードは100%善意でマスキングした笑顔で応える。

「じゃ、ミゲルさんが来るまでの間に、ニキくんの怪我を診ましょうね」

茜曰く。
「ガタガタ御託並べるより、名前呼んで『メッ』って言った方が通じるんだよ、あいつ」
「――め?」
「日本語で、『NO』の単略語? まあ、そんな感じ。犬猫にダメ!って言うノリで。内緒だけどな」
しーっ、と指を立てて茜は片目を瞑ってみせた。

“Own Locks“ based on One’s Looks written by Yomo.
thanks, Hemu, Ramuta, Istura, and Yomo.
BGM Nano “Born to be”.

茜ちゃんの懊悩

何でもない平日に何でもない日常に埋没する街の片隅で、茜は不満に頬を赤らめたまま、行きつけのカフェの奥の席でカフェラテを横に置き、ラップトップにその苛立ちを叩きつけていた。
傍から見ればノマドワーカーが何やら仕事に追われているように見えなくもない。
平日の午後。
客もまばらな店内には他にも似たような姿がある。

苛立ちの原因はとても日常的なものだった。

酷く単純で、誰もが悩んだことがあるような、そんなありふれたテーマだった。
茜の仕事がら頭から煙を出す程悩むことといえば、仕事に関することが多い。頭脳労働者である茜の仕事はハッカーであり、脳細胞と指先とモニターを流れていく文字列に対する動体視力とを駆使して、企業や政治家や知識人や頼まれればその辺りで転がっているだけに見える浮浪者であっても、彼らの隠したものを探し当てる。
大半は趣味の延長であるのだが、故にハッカー同士の戦いになると疲弊する。
彼らのこだわりは精密機械じみていて、そこに人間のユーモアとブラックジョークを含んでいる。
長時間チェスをやっているようなものだ。
相手の手を読み、それに布石を置き、罠をかけ誘導し、相手のロジックキングを打ち破る。
彼らハッカーの中でも栄光として語られる、軍事衛星へのハッキングや国防総省への潜入を成し遂げる腕を持っている茜の全力を持ってしても思い通りに行かないのが、いわゆる『アナログ』である。

暇つぶしにチラリと目をやったサイトの記事には自分が送ったメールに対する返事から恋人がどのように自分を思っているのか、というくだらないものだった。
ただ、それが返事が返ってくるのが前提である、という点が茜にとって面白くない。

「返ってくるだけいいじゃねぇか」

思わず吐き捨て、WEBサイトにControlとWを同時押す。

ニキに送ったメールが返ってきたことはあっただろうか、そんなレベルで考えこむ。
そもそもこの時代にあってして、あの男はアナログな節がある。
携帯電話を持ち歩かせるのも一苦労であるし、未だ旧式の音楽端末を使っている。
世の中、スマホにBluetoothにタッチパネルが前提であるというのに。
そんな相手にメールを送ったところで返ってきたことはあっただろうか。
数えるくらいはあったような気がしても、明確に思い出せない。
今度返ってきたらきっちりクラウドに保存しておこうと思う。
どうせくだらない内容だろうが、そんなことはコレクションに関係がない。
他人にとってどれだけ意味がないものでも、コレクターにとっては至上の価値を誇るものなのだ。

現に今もPCから送ったメールに返事はない。
カフェにいるので、一緒に飯でもどうだと友好的な内容なのにも関わらず。
ニキに着けた盗聴器を作動させてみるも、聞こえたのはノイズだけだ。今回は潰されたらしい。

(次はもっと違うところに着けるか……でも今回は簡単過ぎたから……そろそろ体内に仕込んで――でも表面からちょっと下なら怪我すりゃ終わりだし、だからってもっと奥に仕込むにはオレの腕じゃな……あー、ネットとか脳みそに直結してぇ)

舌打ちをひとつして、茜はカフェラテを喉に流し込んだ。
キーボードを茜の指が滑らかに高速で叩く。
開いたウインドウに映しだされるのは自分(ニキ)の住むアパートの室内だ。
角度を変えて見たところで、目的の人影は見つからなかった。
出かけているのか。となると街中の監視カメラにハッキングをするには今持っているラップトップでは少々心もとない。
どこにいるか考えるものの、相手の出没範囲は思いの外広い。
徒歩ならまだしもバイクであったなら尚の事だ。
ふらりと出かけてそのまま数日帰ってこないこともざらにある。
あまりに続くようなら何かあったと動くのだが、昨日今日の今であれば動くのは少々――ミゲルおにいちゃんにすら過保護だと言われてしまうかもしれない。
心配とは違う。
自分の預かり知らぬところで何かが起きるのが気に入らない。
意外だと言われるかもしれないが、正直死んだとしてもそれはいい。
ただそこを自分が観ていられないのが嫌なのだ。
ずっとずっとリアルタイムに観て、録画して、毎週毎週楽しみにしていたドラマの最終回だけを見逃すような失態は冒したくない。

恋する乙女の暴走とは一味違う。

公言して憚らないが茜はニキのストーカーである。

半分以上は見せて貰っている感がある。
だからもし彼が本気で拒絶してきたのなら、もう観てもいられないかもしれない。
それを不安と呼ぶなら確かに不安であったものの、正常な男女関係であるかと言えば別の話。

自分が執着している程、向こうは自分に執着していないのではないのか、というものを不安と呼んでよいものか。
それは単に現実逃避というやつではなかろうか。そもそも全く興味がないのではなかろうか。
好きとか嫌いとかそういう以前にまずどう認識されているのかを確かめたことがない。
まるきり独り善がり――独り善がることもできていないのではないか。
だったら初めからただのストーカーに徹していればよかったのではないか。
そもそも勢い余って突撃していたものの、相手が自分を見てくるとは全く想定していなかったのだ。
ただ観ていれば満足だったのに、不意打ちで向こうがこちらに気がついた。
晴天の霹靂とはまさにこの事だ。
今でも時折自分の勘違いであったのではないかと思ってしまう。まさに今もそうだった。
ただの勘違いであって、向こうは自分を見ていなかったのではないか。
アイドルのコンサートに行ったファンが、自分の方向にアーティストが顔を向けたのを『目が合った』と思い込むように。

酷く不毛なこの関係を恋と呼んでよいものか。

自分が惚れていることは覆せない事実である。
巷の監視カメラをザッピングしていて一瞬映ったそれに釘付けになった。
それはまさに一目惚れ。
恋だ愛だ、そんなものを吹き飛ばした霹靂。
安いカメラのレンズのような緑色の目も、染めているのかと思った鮮やかな赤毛も、幾つもある傷跡と一緒に不健康そうな肌を這う文様タトゥーも。
それらに目と心を奪われた。これを恋と呼ぶものか。

いつか向こうが飽きたなら。

徹底的に拒絶されてしまったなら、観てもいられなくなるかもしれない。

そう考えるとストーカーの心は哀しみに沈んだ。

それは乾いた寂寥感だったかもしれない。
だとしても、諦めるには近くに来過ぎてしまった。

見渡したカフェの中、客足はまばらだった。
時計を見ると二時間程席にいる。
カップの底に張り付いたカフェラテを見て、追加の注文をウエイトレスに頼む。
もう暫くいても冷たい視線にならないようにチップを多めに渡せば、パートタイムジョブの女子高生はそれで笑顔になる。
ニキのボロアパートから歩くと距離があるが、インラインスケートでラップトップを背負って現れる茜は常連であるし、Wi-Fiもあるこのカフェは近所のノマドが集いやすくもあるので、そう冷たい目をされることはないのだが。

上着のポケットに手を入れたら予想外の感触があった。
角と平面。
引っ張り出せばそれはニキの吸っている煙草の箱だった。
腹いせに置きっぱなしだった彼の上着を引っ掛けてきたのだ。
中身は数本減っていただけだったので少しばかり溜飲を下げる。
纏め買いをする習慣を持たない彼は今頃新しく買う羽目になっているはずだ。
机の端に置かれていた、店名が入ったマッチに火を着けて、火先を咥えた煙草の先に近づけ、息を吸う。
火は煙草に引火した。
煙は崩れていく糸のように立ち上がり、天井のファンに掻き回されて消えていく。
頭の後ろに手を組んで、背もたれに思い切り寄りかかる様は、傍から見れば仕事に悩んでいるように見えたが、恋愛に悩んでいるようには見えなかった。
だから遠くの席のノマドワーカーが憐憫の眼差しを向けた事に、茜は気づかない。

それから目を閉じる。
喉を焼く煙。辛い。キツいタールとニコチンと。
いつも彼が纏う匂い。ここに血と消毒液を混ぜればきっと似せた匂いができる。
後は硝煙と――匂いは記憶を呼び覚ます。昨日の夜、ふらりと出かけていったニキは朝にはまだ帰っていなかった。いつものことだ。自分の立場を恋人と言っていいのか、悪いのか。家族でもないのに束縛する理由はなかった。彼がもし、どこかで他の女を抱いていたとしてもそこに嫉妬を感じない。

『人は気づかない内に誰かと家族になっているものなんですよ』

何の話をしていた時の言葉だったか。

知り合いの精神科医の言葉が不意に蘇る。自分はあいつと家族になれるのだろうか。それは酷く儚い夢のように感じられた。まるきり夢物語のようで現実感がない。自分はどうしようもなくしがみつけるのに、向こうはこちらにしがみついてくれるだろうか。

薄っすら目を開く。天井でくるくる、くるくるとファンが回って、茜が立ち上らせる煙草の煙を撹拌させている。

口の先で溜まっていく灰を落として火傷をする前に、それを灰皿へと叩き落とした。灰皿に落ちた灰は何やら自分に似ている様に思えて苦笑いが浮かんだ。

所詮は独りで踊っているに過ぎない。それに相手を求めるのが間違っているのだ。

乾いた達観は乾いた笑みを乾いた唇に煙草のフィルターを貼り付けた。

剥がす時に持っていかれた唇に少しばかりの痛みと少しばかりの血の味。

精神科医なら何というのだろう、と思いだした言葉に繋げて、ぱっと見はなよっちい頼りがいのなさそうな金髪碧眼の彼の職業と絡めて考える。
口にすることはないだろうが、恐らく職業柄、職業病で関わりのある人間のことを多少なりとも診断している筈だ。そんな専門家にしてみれば、一体どのように自分は、彼はどのように写っているのか。

(……ろくなもんでなさそうだ)

茜はPCやネットワークに関してはプロフェッショナルであるが、アナログに関しては素人である。
故にその方面に関しての知識はドラマで見た程度で、二番煎じになりもしない。
故にそんな程度の結論を出す。
WEBサイトを検索してある程度の症状を当てはめて、カテゴリーの名前を見つけることは茜にもできる。
けれどそれで何になるのだろう。
相手の経歴を調べることもできる。
だが、ネットに転がっている『真実』の便りなさを茜は知っている。
真実は、作ることができる。
真実よりも真実らしい嘘を。
事実、ニキに持たせている身分証は茜が偽装したものだ。
そこに真実を混ぜてしまわないように、そして自然に見せる為に、ある程度は茜も調べたことがあるから知ってはいる。
文字の羅列としては。ただそれだけだ。

以前、寝言で、寝ぼけたニキが掴んだ茜の腕に呟いたのは茜の名前ではなかった。

(マリア)

名は茜も知っている。
ニキのタトゥーを彫ったアーティストの名前だ。
その関係が彫師と客だけの関係でないことも知っている。
流れるような金髪に夏の空のような瞳をした、豊満なボディライン――の映像を脳裏に描き、茜はちらりと己の体を見下ろして、今の考えを忘れる。

名前の通り、彼にとっては神様の類なのかもしれない。
その間に入れる等とは思いもしなかった。
ふたりでいる間に何があったのかを茜は知らない。
正しくはそこまで調べきれなかった。
情報があれば調べることは可能だと茜は自意識過剰ではなく事実として思っている。
だが、情報がなければ調べることは不可能だ。
茜が得意とする世界はデジタルであって、アナログではない。
デジタルな画像がWEB上にあれば、それを探すことに難はない。
もし暗号化されていたら手間と時間はかかるかもしれないが、できないことはない。

だが。

どこかの部屋の片隅に落ちている写真がフィルムアナログであったなら、探すことはできない。
0と1に変換されていない情報を探すのは茜の得意分野からかけ離れている。

バカバカしいかもしれないが、それが限界だった。

そう、酷くバカバカしい。

茜の指先で煙草は吸われることなくただ灰に変換されて崩れて落ちた。

フィルターまで燃え出したそれを灰皿に擦りつけて、ウエイトレスが多めのチップのお礼に少し増量して渡してくれたカフェラテを笑顔で受け取って口付ける。
カフェラテの熱は思いの他、唇に染みた。
唇を舐める。血の味。この恋は血の味に似ている、くだらない映画のキャッチコピーのような文言を思いついた。

(いっそ、リチャード先生にカウンセリングでもさせてみようか――)そう思ってみたものの、まあ無駄だろうな、と続けて呟いた。

もしもあれが病気であるのなら、本人に治そうという意思がなければどうにもならないし、聞いたことにしか答えないのであればカウンセリングになりもしない。
意味がない。
ただの尋問か質問にしかならない。
そもそもニキは用がなければ病院に行きたがらない。
用があるであろうレベルの怪我であっても行きたがらないので、時折死にたいのかな、と思うこともある。

(ただの自覚なきドMなのかもしれないけどさ)

そう思い変えてみたところで、自分の命に対して何らかの執着がないのはわかっている。
同じように他人に対する命への執着もない。
自分が死ぬかもしれないことと、人が死ぬかもしれないことに対して同じように意味がないのだ。
それは酷く平等で、この上なく社会性を欠いている。他人への共感も皆無だし、さして関心もない。

(もし、あいつが死んだなら)

そこによく見るような悲哀はない。
あるのは背中をぞくりとさせる感覚だ。
それは性的快楽の方に近い。
きっと綺麗だと思うのだ。
彼の人の死体は。どれだけグロ画像となっていても、そう思う自信があった。
そうしたら自分も壊れていくだろうか。そんな些事を放置しても、その夢想はどちらかと言うと甘美だ。

(あいつにオレはどう映ってるんだろう)

何となく次の煙草に火をつける。
完全に煮詰まっている風のまま、茜はラップトップのモニターがブランクになっていることに気がついて、キーをひとつ押した。モニターに写る映像や文字列は先ほどから変化はない。

まるきり全てが無意味だったのなら、自分がいてもいなくても同じであって、そもそも表情通りにただ迷惑なだけなのではなかろうか。
世界の終わりに気づいてしまったかのような暗澹たる面持ちで茜は俯いた。
傍目には致命的なバグに出会ってしまったIT技術者のようだ。
遠くの席のノマドワーカーが見当違いだったが、憐憫の眼差しを送る。
どこかのSEかデザイナーが無理難題を抱えているのだと、彼はそう同情した。

もういっそ、前のようにただのストーカーに戻ろうか。
そっちの方がお互い幸せかもしれない。
自分は観ていられればいいのだし、向こうも迷惑な存在が消えて楽かもしれない。
だってほら、オレを見る時、時々物凄い冷たい、虫でも見るような目で――
決意を込めて顔を上げた茜は口をあんぐり開けて、銜えていた煙草をポロリと落とした。
それは掌に落ちて、
「あっちい!」
悲鳴と共に火種を振り払い、慌てて床に落ちた煙草を拾う。

驚いたような、泣き出しそうな、笑い出しそうな、複雑な表情のまま茜は、
「なっ、なんだよ!」

いつの間にかそこに両手をポケットに突っ込んだまま――茜が着ているので上着はないまま――つまらなさそうにそこに立っているニキに八つ当たりじみた声を投げる。

なんだよ、の言葉にニキは少しだけいつもの無表情に片眉を持ち上げた。
「来いつったくせに」
じゃ、いーか、と踵を返しかけたニキの服の裾を瞬時に掴んで、
「来ると思わなかったんだよ!」
茜はついさっきまでの『この位置』を手放す気持ちを手放した。

公言して憚らないが、茜はニキのストーカーである。

やはりストーカーであるのなら、最前線で観ていたいと思った。

世間的にはこれは間違っているのは間違いないだろうがそれでも。

側に居たいと思うのは事実であるのだから、わかりやすく拒絶されるまで居座り続けてやろうと決意新たに、メニューを広げる顔は笑顔というにはニヤついている。

「なに、ひでぇ顔してんな?」
「うるせえよ。お前程じゃねえよ」
言って、茜は更に追加を頼むべく、元気よくウエイトレスに手を振った。

“Her thinking of him” written by Xacra.
BGM tacica「某鬣犬」
2015/05/06

GHOST

スコープを覗く、片目を閉じれば円が世界を遮断する。
仕事帰りに飲み明かしても、明日の仕事に響くのを恐れてそろそろ解散に時計を眺める、そんな時刻。
高級ホテルの一室を、空きビルの一室のひび割れた窓の間から垣間見る。

約300m先のプライベート。

サイトの中に標的を探す。7階の角部屋。高そうな部屋――それだけを安物のプラスチックのような目は感想に思う。その部屋を一晩借りるにどれだけのドル札とそれなりのステータスが必要なのかということに興味もなく、不用心に開けられたカーテンの向こうで酒瓶を傾ける、スーツを寛げた男性を眺める。指先はまだトリガーガードの上に。それがどこの誰かということではなく、標的かどうかだけを確認する。

換気の止まった室内の淀んだ湿度と室温にじっとりと汗が頬を伝っていく。

それらは外の世界の出来事だ。照準の外の世界はもはや知覚の外にある。

温度も呼吸も聴覚も嗅覚も全てが外にある。視覚だけが目の前にある。

標的の頭を中心に世界の。指先がトリガーへと伸びる。
指を曲げれば鉛弾が約300mの隔たりをゼロにする。

こちらと言えば微かな衝撃に肩を叩かれるだけだ。

何の前触れもなく弾かれたように振り返った先に見えた、素人にも上等だと知れるオートクチュールのスーツ、絹糸を束ねたような髪色、男か女か判断しにくい長身の人物。

だが銃弾は300m先でなく、目の前で穿たれた。

彼(彼女?)が持つベレッタが硝煙を薄っすら吐き出している。火薬の匂い、それと本人が着けている香水なのか甘い匂い。
「鼠がいると聞いて来てみれば、とんだ野良猫だな」

声を聞いても彼なのか彼女なのかわかりにくい声。
ただしその整った顔の無表情から吐き出されているのはありありとした不快感。

片膝を突き、ライフルを構えたまま、狙撃手は不意の襲撃者を見上げる。
「よー、フローレンス」

その呼び方に、襲撃者の整った眉が持ち上がる。
「その名前を呼ぶなと何度も言っているだろう」

「はいはい、フィクサーサン」

コンクリートに撃ち込まれた鉛弾を吐き出したベレッタはフローレンス――フィクサーの手の中だ。彼の立っている位置と今、狙撃手が腰を下ろしていた位置からして、確実に殺る気はそれほどなかっただろうが、それでも当てる気はあったようだ。
「その体勢から避けられるとは思わなかったぞ」

「前にいちどあったからな」
それは長い黒髪を垂らした日本人サラリーマンのビニール傘での一撃であったけれど。
――あれは避けきれなかった。

「で、なに?おれ忙しーんだけど」

「その忙しさを暇にしてやろうと思ってな。ニキ、貴様が今狙っている男は我々の組織と懇意にしている。今、そのパイプを失うことは少々惜しい。最も次の選挙で落選すれば用はない程度だがな」

「……だから?」

「その依頼はいくらで受けた?倍を出すから手を引けと言っている」

「ほんとおまえセレブだな」

呆れ混じりに思ったことをそのまま言っただけだったのだが、どうにも相性が悪いようでフィクサーが苛立ちに銃口をニキに向け直す。

「嫌なここでそれなりに怪我をしてもらうことになるが、損得を考える頭があるならとっとと失せろ」

「何イライラしてんだよ。2日目かよ」

と、ニキは肩にかけていたライフルの位置を直す。悪くない話だということは彼も理解している。ただゲームの邪魔をされたことは面白くない。その程度の八つ当たりだったのだが、
「……やめた」
突如、フィクサーがボルサリーノハットを脱ぎ、外から差し込んでくる少ない光量の中でも整っている事がわかる顔に笑みを貼り付ける。
「貴様には一度、とことん痛い目を見せておいた方が良さそうだ」
それは社交的な笑みでも、恋人や妹に見せる笑みでもなく、敵に見せる凍りついた笑みだ。

(……)

今更にして、ニキは地雷を踏んだことに気がついた。
『ニキさんも少しはデリカシーを覚えなさい!』
いつか、今と似たような状況でフィクサーの横に現れた精神科医なのか内科医なのか外科医なのか――とにかく医者に言われたセリフを思い出す。思い出したところで対応を取ろうとは思わないのだが(ああ、こういうことか)と今更ながら理解はした。

フィクサーの腕がオーケストラの指揮者のように舞い上がる。絹の白手袋に挟まっているのは指揮棒ではなくスタンダードな致死力を誇るベレッタM92。吐き出す弾は9x19mmパラベラム弾。当たれば当然肉が散る。銃口の先にいるのは自分。銃声はサイレンサーが抱き込んだ。心臓へ3発。冷徹な射撃が狙った正確無比な銃弾の衝撃に、ニキの体が床に落ちた。最も周囲への手前、殺す気はなかったので致命傷は避けている。とは言え、すぐに病院に担ぎ込めば――の範囲だが。フィクサーが携帯を手に取ったところで、
「いってぇ!」
ニキが跳ね起きた。

さすがにその反応に驚いたフィクサーが目を瞬いた。

倒れた拍子に後頭部を床にぶつけたらしくニキは頭をさすりながら立ち上がる。
「お前ほんとオンオフ違い過ぎんだろ。リチャードもマオもギャップ萌えとかいうやつなんかよ」

フィクサーには意味不明なことをニキが言いながら立ち上がる。

「貴様、どう避けた……」
歯ぎしりの間から漏らすような声でフィクサーが問うた。

「よけてねぇーよ、ひーらぎじゃあるまいし。あたったよ。いてぇーんですけど?
お前のことだからセオリーどーりに心臓か脳天ねらうだろうとおもっただけだよ。まじ痛い」

「――とっさにライフルを盾にしたというのか」

「弁償しろよな。気にーってんだからこれ。AIのL96」

「知るか。身から出た錆だろう」
ふん、とフィクサーが尊大に鼻で笑う。
「思っていたより楽しめそうだ」

暗い愉悦を覗かせるフィクサーに、ニキはただつまらなさそうな視線を投げる。

「そーゆーのはリチャードとかマオに頼めよ」

びしっ、そんな音を立ててニキが踏んだ地雷が音を立てた。正確にはフィクサーの関節の音だ。一瞬で伸びた彼の腕はニキのパーカーの襟首を掴む。
「そういえば、マオとメールアドレスを交換した件について、まだ話し合っていなかったな」

「これは話し合いじゃねぇーと思うぞ?」
襟首を掴まれて、片手に銃を持った相手に話し合いだと言われても、これは間違うことなくただの恫喝。フィクサーの方が背が高いので、上から覗きこまれると中々に圧迫感を感じつつ――
と、間近でニキがフィクサーの顔を覗きこんだ。
「……何だ」
「――おまえ、睫毛なげぇーな」

「な、にを」
言っているのか、という間にニキが襟首を掴んでいたフィクサーの手をすり抜けた。猫の着地のように屈む。床に放り出していた自分の鞄を掴む。ギターケースをそのまま振り上げる。下からの飛来物にフィクサーが後退したことにより、距離が開いた。

鞄を肩に担ぎ、ニキが首を傾ける。
おまえ、よくみると美人だな

外を通りかかったヘリのサーチライトが差し込んで開いた距離が実際より長く思えた。
ヘリの音で何を言ったのかは聞き取れなかった。情報としては理解している、けれど意図が読み取れない。

「なんだと?」
フィクサーの問いに初めから聞いていないニキは肩を竦め――その動作の続きで尻ポケットに入れていたグロッグを引き抜いて、フィクサーへと銃口を向ける。靴底の減るステップでフィクサーは反射的に左へと飛んだ。追って、床に穴が開く。サイレンサーはついていなかった。3発の銃声と同時、床を蹴るスニーカーの音。サイドに避けたフィクサーが今立っていた場所。蝶番が外れて横に扉が立てかけられている出口へとニキが駆け抜けていったその一瞬、鳶色と緑色がかち合った。ただそれだけだというのにフィクサーはニキに笑われたような錯覚を覚える。そんなことはない。ただニキはフィクサーを見ただけだ。それだけのことだった。そのままニキを追って、フィクサーも廊下へと足を踏み出したそうとしたところで踏みとどまる。視界を独占する向けられた銃口。瞬間で退く。
微かな風と、弾けるコンクリート、降っていく破片。

躊躇などなく弾かれる引き金。

――ニキくんは、そんな人じゃないって。

過去から声が聞こえた。

「……何がどう違うと言うんだ?」
口の端だけを釣り上げる。言い換えるなら笑みという他に形容しようのない表情で、ただそこに柔らかな感情は髪の毛一本程もなく、フィクサーこと米国D-LIZARDのボスは笑う。
勘違いしている。
いや、忘れているだけだ。彼らは思い出す機会が少ないから。
誰もが彼もがどう生きてきたのか、その様を。

(あ~まじ痛って)
とりあえず廊下を駆け抜けて、適当な場所に蹲ったままニキは舌打ちをした。至近距離の銃弾を銃身越しに受けたことに対する不満。心臓に穴が開くことの代償とするのなら、それは存分に安すぎたが、受け身を取り損ねてぶつけた後頭部と合わせて痛い。

場所は同廃ビルの屋上、崩れかけた給水塔の横。とりあえずどうしたものか。
煙草を引きずりだして、少し折れたそれを咥える。

(あいつのことだから引くだろ)
余計な事に首を突っ込む質ではない。ビジネスライクに金銭で解決したがる性質だ。今回の設け話は不意に飛んだがまあいいや、と火を点ける。一瞬だけ使い捨てライターの炎がニキの赤い髪をより赤く照らして消えた。

残るのは煙草の先の小さな炎。辺りを照らすには頼りなさすぎる。

音楽端末を引っ張りだし、首にかけていたヘッドホンを耳に被せる。一見で判断すればどこかのアマチュアバンド――ロックかパンクか、どちらにしても半社会的な――のメンバーのような様。ギターケースの中身は楽器ではなく許可証なしに持ち歩いている危険物という点を除けば。

音楽端末を指で叩く。
起きているだろうか。返答は数秒もしないで返ってきた。
ヘッドホンのスピーカーを利用した、ノイズのような短い振動。ベースの低音に似ている。
ニキが指で端末を叩く。
何も知らなければ聴いている音楽のリズムを指で取っているような動作。
ノイズのような振動が返る。――何しくじった?
振動の長短を組み合わせたモールス信号のようでいて、異なったロジックで構成されている茜とニキの共通言語。

――フィクサーいた。
――あー、なんかぽいなー。でも部隊じゃねえよ。護衛はいるけど。
――あの格好だし。ひとりで歩かないだろ、あいつ。
――で?
――移動した?
――してない。
――なんで。
――知らん。

「知っとけよ」
ニキが肉声でぼやいた。

どうするかな。段差に腰かけたまま、ニキは膝に頬杖をついた。吐き出した煙。風に煽られて一瞬で溶けた。

――ニキ、知ってるか?心ってシステムにはPCじゃハッキングできないんだぜ。近くにそれっぽいリムジンはあるけど、移動してない。何した?
――なにも。
――なんかしたんだよ。だから言ったんだ。予備バッテリー持ってけーって。言うこと聞けよてめーは。あと傘も持ってけよな。帰り雨だぞー?

文字通りノイズと化した茜の愚痴っぽいノイズ信号を聞き流し、ニキはとんとん、と煙草の灰を叩いて落とす。それは信号ではなかったが茜には意味のない動作だと知りつつも、聞こえた気がした。聞いていなかった時に返される生返事。

暫く待っていればフィクサーのことだ。イライラしたまま移動するだろう。
スケジュールが分刻みで埋まっているセレブだ。

音楽端末の電池残量を見やる。まだ暫くは大丈夫そうだが予備を持ってこなかったので万全とはいえない。バッテリーを優先するのに電源を切ろうかと思ったが、やめた。普段なら煩いだけなので可能な限り切っているか、聞こえる音量で音楽を流している方が多いのだが、勘に従ってそのままポケットに突っ込んだ。
なるほど、不便だ、と今更にして思う。
暗がりで音が聞こえないということは。
茜作の補聴器を仕込んだヘッドホンと音楽端末。
バッテリーの残量からしてタイムリミットは15分。
気のせいならそれでいい。
だが。
その手の予感は大概において外れない。

「上に逃げる、というのは手としては悪くない」

声が聞こえた。中性的なアルトだが、普段より低めのフィクサーの声。まじまじと聞いてみると不思議な気分だ。

「暇なのかよ」
ニキが呟く。補聴器は無条件に拾うので、自分の声への違和感に顔を少しだけ顰めた。

「ただ所詮は……、と言った処か。やることがザルだな」

(あー。距離わかんね)
音声というよくもこうも不確定なものに、よくも人は慣れているものだ、と心の隅で感心しながらニキはグロッグの残弾数を計算する(17-3)。こちらの予備はマガジンが1つ(+17)――31発。ライフルは先のダメージを考えると除外しておいた方が良いだろうか。暴発もジャムも厄介であるし、そもそも近距離では鉄パイプにしかならない。何より本格的な訓練を受けた輩との近距離戦闘はしたくない。

(ニンジャでも降ってこねーかなー)
とは言え、茜の話を思い出すに、通り過ぎる際に人助けをする善意の台風は現在国外にいないらしいから幸運は降ってこない。

緊張感なくその場に座ったまま、煙草を吸いながら、ニキがぼやく。
「忙しくねぇーのかよ」

「仕掛けてきたのは貴様だろう。
わざわざお遊びにのってやっているんだ。感謝してはどうだ」

フィクサーの声は楽しそうにニキには聞こえた(まだ本気じゃねぇな?)が、
――何したんだよ。わりとマジじゃん?
茜がうんざりを装った、うきうきした声をノイズに変換して来た。
盗聴器で音は拾っているらしい。
なるほど、とニキは思う。声から感情を聞き取るのは茜の方が上手い。
煙草から口を離す。短くなった煙草を捨てる。
(まじなのかー)
ああ、でも――と思う。
折角だから、蜥蜴に悪戯をしてみるのも面白いかもしれない。

気配。誰しもそれを感じるというのに日常生活では個人差が激しいそれ。
彼にとっては手に取るようにわかるそれ。
皮膚を撫でられた時のように、それは確かな感覚器官の一つ。確かなものとして幼少の頃からあったもの。

気配を感知する能力。

フィクサーは確かな足取りで、ゆったりとした歩速で暗がりを進む。
彼にしてみればニキの居場所など手に取るようにわかる事だ。
かくれんぼになりもしない。
が、フィクサーは足を止めた。

屋上へ上がる階段、外と内側を隔てていた扉を失った平行四辺形なだけの外への入り口。
先にニキが持っていた武器を思い返すと、このコンクリートの壁をぶちぬける火力はありそうになかった。一応の安全圏としてフィクサーは狙われない位置を計算してそこに立つ。

ふと、思い出す。
関わりは深くない同業者が言っていた戯言を。
国籍を問わず様々な組織に足を突っ込むフリーのスナイパー。従軍や、訓練を受けた経歴がない故に――書類上に存在しない――腕利きらしい狙撃手の話。噂ではCIA職員による大統領襲撃にも関与していたらしい、と。 噂とは独り歩きするもの。故に真偽の程などわかりもしないし興味もなかった。ただ聞き流したそれを記憶していた理由。

「GHOST」

記された書類がないということは存在しない筈。
故に、その同業者は皮肉を込めて「まるで幽霊みたいだろう」と言ったのだ。

本人の知らぬ呼び名。
それを思い出してみると意外なようで、意外でもないようで、ただ奇妙な納得はあった。
ふらふらと彷徨って呼んでもいないのに余計な場面に現れる――確かに似合いだ、と。
「ならば幽霊退治と洒落こもう。英国人が幽霊ごときに怯む道理はないからな」

先の銃弾を受けた個所を確認して排莢をしてみたが、動作に違和感はなかった。
一度分解してみないと細かいところはわからないが、一旦は使えるか、とニキは先の判断を覆す。

標的のいるビルが見えた。やはり先程の位置が狙いやすかったなと思う。
メリット:視界は外に出たことにより中よりは光量が増して良好になっている。
デメリット:外の方が音が多い。必要な音と不必要な音を区別するのを得意としないニキとしては今の音が必要なものだったか不必要なものだったか――それは音なのかノイズなのか。その判断がしにくい。

聞こえた音に首を巡らせる。

そこに人影は見えなかった。

軽い風。ニキは半身振り返り、上体を傾ける。見えた白――上質な白手袋/繰り出される拳。避けた。拳を引き戻すついでにフィクサーが膝蹴りを放つ。ニキが片肘で受ける。バランスを崩さずにフィクサーの次の拳を下腕で流したニキが掴もうとしたところを涼しい顔でフィクサーが更に流して逆にニキを捕まえにかかる。靴底が焦げ付くステップでニキは後退する。フィクサーの追い打ち・回し蹴りがニキの脇腹にヒットした。ライフルが屋上のコンクリートの上を転がっていく。
「弾より蹴りのがやべぇってまじデスレコードまじ」
同じく転がされたニキが手すりに当った勢いにヒュ、と呼吸音を漏らしながら、呻いた。

それを聞いて、フィクサーは片方の眉だけを尊大に持ち上げる。
「これでも手加減しているんだ。手加減なしなら貴様の内臓など軽く破裂する。
それと私の異名のことを言っているならレコードではなく、カウンターだ」ぞんざいな訂正にニキが咳きこんでから、言う。
「カウンターよりレコードのがけっけーじゃん」

そんな個人の感想はどうでも良いと、フィクサーが無表情にニキへと歩み寄る。
空いた距離は数メートル。ニキの後ろは崩れかけた手すりと夜景。
内臓を破裂させる気はなかったが、それでも骨の2,3本は貰うつもりだった。
フィクサーはわざとらしく拳を鳴らし、犬歯を見せて笑う。
「折角だ。この際――きっちり貴様の体に説明してやろう。何、殺しはしないさ。楽しめなくなるんでな」

「へんたーい」
ニキが平坦に茶化した。

(――折れた。)
肋骨。触った感触でそう判断する。ぐにゃりとした指先への返触と熱源。吐きだした息も熱いような気がした。先日、傘で折られた足のギブスが外れたばかりだというのに。

今ので転がって行ったライフルを一瞥する。取りに行くにはやや遠い。それより先にフィクサーがこちらに手を伸ばす方が早い。出口はフィクサーの後ろ。――首が動く範囲で、視界からフィクサーが消えない範囲で、振り返って背後を確認する。夜景。
ビル風が吹き上がる。紙――おそらくは新聞紙――がその勢いに乗って舞い上がる。

「余所見をしている暇があるとは、余裕だな」

フィクサーが言った。
音もなく伸びてくる白手袋に、懐に入れていたグロッグをニキが腰を上げながら構える。フィクサーの手がグロッグを通り過ぎて、ニキの腕を掴んだ。引き金が引かれるより早く、ちょっとした関節術と力づくでその銃口の方向をフィクサーが変えさせる。曲げられる肘と共にニキの方へ向け直された銃口。ニキの抵抗もあり、銃身で自ら肩を叩くような位置で弾かれた鉛は直線に憧れる曲線を描いて夜景に消えていく。

耳元での銃音にニキが顔を顰めた。切っておけば良かったと思うが、思いの他大音量での銃声を聞いてしまったのは彼ではなく、彼につけた盗聴器を通して増幅させた音量をヘッドホンで聞いていた茜の方だ。だがそんなことは誰も知らない。
フィクサーが固定した左手は動かせない。腿に当たる手すり、その後ろにある浮遊感。

「このまま突き落としてやろうか」

そう言うフィクサーにニキが興味なさそうに、ただ今の銃声に起因する耳鳴りに舌打ちをしたい気持ちのまま、半分以上身体は手すりの向こう側・腕はフィクサーが掴んでいる・片足は浮いた状態――生殺与奪権を握られたままニキが言う。
「やれば?」

フィクサーが苛立つ。それがただの負け惜しみや強がりであるならそうも苛立たない。その言葉にその言葉以上の感情が含まれていないことに苛立った。それでは支配できない。蹂躙できない。制圧できない。利用できない。自由にできない。操れない。そもそもこれがチェスだったとして、ルールに従っているのは自分だけなのだ。初めからくだらない、つり合いのとれないゲームとも呼べぬ状態。

その作り物の粗悪なプラスチックのような目に映るのは奥歯を噛んだ自分の顔だ。

「貴様がどの組織にも属していないのがよくわかる」
苛立ちの中にあった一抹の違う感情を吐き捨てるように、フィクサー。
属していない、のではなく単純にこんな輩は飼っていられない。コストとリスクだけかかる。利益を生まない経費など、幽霊どころか疫病神か害虫だ。

このまま落としてやろう、そう思うと同時、左腕に一拍ずつ冷たさ→無感覚→熱と――痛みを感じた。
フィクサーが掴んでいるのはニキの左腕。ニキの右手がフィクサーの左腕をナイフを持って通り抜けた。その先にあるのはフィクサーの首。頸動脈。
銀色の直線にフィクサーは右に引くと同時に、押した。

そして、中途半端に屋上に残っていた体重を夜景に落として、ニキがフィクサーの視界から自由落下の法則に従って消える瞬間、少しだけ驚いたような顔で、ニキが口を動かした。
Пока, Флоре́нтийя
最後に、何度言ってもそう呼ばれたことに対して苛立ちの視線をフィクサーが送ったが、それすら鼻で笑われたように見えた。

切られた袖がその下で口を開けた肉からの出血をじわりと吸っている。

英国紳士も舌打ちをするが、整った顔立ちは歪めても別の芸術品になりそうだ。
そこで携帯電話が震えた。通話にして耳に当てる。
「なんだ」
『ボス、例の議員に少々問題が』
「……どうした――」
と、今自分が立っている位置からニキが落ちて行った方向の夜景を眺めて、改めてフィクサーは舌打ちをした。 自分が立っているのは先にニキが議員を狙っていた窓のあった方向と同じ方向。先にあるのは高さを変えた標的(議員)のいるホテルだ。先ほど自分の力でニキの銃弾の方向を変えさせたと思ったが、それが計算なのか偶然なのか何なのか。確認しようにも既に相手は退席済みだ。
「死んだか」
『いえ。無事です。が――、次の選挙は無理かもしれません』
部下の報告を聞きながら、カツカツと踵を鳴らしてフィクサーは前へ出る。

手すりから見た下に赤い髪の男の死体は見当たらなかった。
ただ下に、非常階段がある。そこから逃げたことは明白で、無為に罵りたい気持ちを噛み砕きながら、フィクサーが携帯に告げる。
「一旦戻る。車を回せ」

処理するどころか、さらに溜まったフラストレーションを抱いてフィクサーは踵を返した。

苛立ち高らかに靴音が闇に消え、代わりに遠くから警察車両のサイレンが聞こえる。

月のない夜、月も嫉妬する光を抱く人間の夜にあっても、屋上に放置されたライフルを照らす明かりは遠すぎた。

そして――
高級ホテルで娼婦と優雅な一時を過ごしていた上院議員の一人が窓ガラスを割って飛び込んだ銃弾に心底胆を潰して部屋を逃げ出した。それだけであれば何ら問題はなかったともいえるのだが、誰もが高機能なカメラ機能のついた携帯電話を持っている時代の不運。

プライバシーはもはや死んだと誰かがネットで歌う時代。

短絡的なSNS経路に流出したストリーキング姿は例に漏れなくネット上で炎上し、マスコミを巻き込んで面白おかしく脚色されたスキャンダルへと発展し消費されていく。

GHOST that suicidal cat written by Xacra.
BGM 矢野絢子「ろくでなしって呼んで下さい。」
2014/08/02

New Device

見られる方から見たのなら、好奇心しか映らぬ瞳がひとつ、空を埋め尽くして見えるのだろう。もしも顕微鏡のパレット上でカバーガラスを貼り付ける表面張力の中から世界を見上げたのならば。
青い瞳に映るのは、未だかつて見たことのない玩具を見つけた子供の瞳。
睫毛がレンズに触れてしまいそうな程に覗きこみ、次にそれをモニターに全画面表示させる。楽しくてたまらないので、キーボードを叩く音すらリズミカルだ。

鼻歌まじりに何をしているのかといえば、興味のない人間に説明をすれば3分と理解させられずに終了し、興味のある人間に話せば夜が開けても終わらない。

先程帰宅したニキの体内から引きずりだした、バイオテクノロジーとナノテクノロジーの申し子が目の前に、茜は今にも小躍りでもしそうな程に喜んでいた。
事実、指先は首にかけたままのヘッドフォンから――つけっぱなしのテレビ画面の洋画から――漏れる音楽に合わせてキーボードを叩いている。

「うひょう、すっげー! すげぇ! D-LIZARD すげえ!! Across this new device!」

椅子の上で両手を広げる茜は背後のニキの半眼もどうでもいい。
目の前にある新しい玩具こそが重要だ。
残された楽しい時は長くない。
「すげえぞこれ! タンパク質だ! タンパク質でナノマシン作ってっから、レントゲンにも映らねんだよ! タンパク質でできたロボットだ! いやそれだってオレらもタンパク質で出来たロボットだった! 同じモンでできてりゃ、そりゃ無理だ! わかんねえよ!!」
きゃきゃきゃと笑う茜の目の前に並ぶマルチディスプレイでは英数字の羅列が流れては消えていく。タイムトライアルの中で人知れず知る(そもそも知名度が上がった時点で負けとも言える業界ではある)ハッカーは情報の解析に全力と興奮を注いでいた。

「電力供給がすげえシンプル! レモン電池みてえだ! その時の電力でそのまま信号出してんのか!? すげえな!! レシーバーどうなってんだよ!! 受信データをどう変換してんだ!?」

デジタル信号の途絶えたデバイスは既に役目を終えたことを知り、遺伝子にも仕込まれているように自死プログラムを発動している。
茜はばらばらと途切れていく細胞をモニター越しに、顕微鏡越しに凝視しながら、最期の瞬間までの情報を読み取ろうとしている。

死に似た現象を観察している。

テクノロジーが発展して、何もかもが便利になったとして、どれだけ人間が進化して、そして滅びる時が来ても、有史以前、地球上に生命が発生した時から変わらずに、魂の証明がなされ、生命の起源を解読し、遺伝子を操作して思い通りの生命体を造れたとして、人格の再構築が1と0で可能になって、デジタルにどこまでも他者と交わり合うことができたとしても、同じものを求め続けている。

自分に触れる他者の温度アナログを。

そう、神様はきっと淋しがり屋で寒がりなのだ。

一人ぼっちに耐えられなくなったから、誰かを求めてみただけの、迷子の子供みたいな気持ちで世界を創造したに違いない。

だから生き物は自死できるのだ。
与えられるシグナルと共に存在意義を失って。

デバイスは溶けて崩れ、解析が不可能になる。
茜が「ああん」といい所で中断されたと不満の声をあげるが、今得たデータをさらに解析するプログラムを起動させ、その動きを少し眺めてから、ため息を吐いた。

「でかしたぞ、ニッキー」

今更の感謝(?)にくるりと椅子を回せば、当のニキの方は部屋の真ん中にあるソファに寝転んだまま、テレビの方を眺めていたので、茜はばたばたと手を振って自分の存在をアピールする。
「ニッキー! ニッキサーン! 聞いてー! 見てー!!」
視界の隅で動くものに気づいたニキが視線だけ茜に投げれば、茜は満面の笑みで親指を立てた。

「レアアイテムゲットだぜ!」
まるきりゲームで得たような。

「あっそ」
興味無さそうに、ニキが言う。先程、右腕に茜が作った新しい傷を手当する気もないらしい。

「なんだよーすげーんだぞー。聞く? さっきまでお前の中にあったんだぞ?」

「もうねえじゃん」

身も蓋もない返答に茜は椅子に座ったままスライドしてニキに近づいて、口を尖らせる。
「つまんねー奴ー」

「はいはい」
ニキは先まで自分に埋め込まれていた発信機よりも、テレビの方が面白いらしい。
「さっき見たのみてー」

「あー、あれもすげーなー。録画あるぞ」

「なに撮ってんだよ」

「撮ったのはオレじゃねえもん。ナイツコルスの監視カメラだもーん」

(つまりはそれにアクセスしていたわけだ)

「子ども達は全員、英国側に保護されたし、悪の組織は壊滅したし、めでたしめでたしじゃんな」

「悪の組織って、フィクサーなんざその統領じゃねえかよ」

スーツの時なら似合いそうだな、とニキは思う。ただし、リチャードを思い出す。それと、妹。

「……どれがヒーローで、どれがヒールで、どれがヒロインだっけ……?」

何となしに呟いたニキに茜が冷蔵庫から我が物顔でワインを持って帰ってきた。
「それならお前は、美味しい脇役だな。
ちらっとしか出ねえのに、固定ファンが付くタイプの、すぐ死ぬ奴」
ほらどけと、同居人がソファーに転がったままの家主を手で払う。
「オレの場所開けろよ」

そして家主が嫌そうな顔をして、それでも体を起こした。

ニキが頓着せずにポケットに突っ込んだせいでくしゃくしゃになった小切手を、茜は顔の前で広げる。
ニキとフィクサーは誰も仲が良いとは言わないことは間違いないだろうが、度々遭遇して何やらいつもニキの方は大金を得ているような気がしないでもない。

「臨時収入、どうすんだ?」

どうって、と聞かれ、何か使う予定があるのか、と問われたことに思いついて、ニキが茜の鼻先の小切手の額を見る。
金払いのいい上客、知り合いの弁護士が言っていたセリフを思い出す。
確かに、2倍の額を提示されて裏切らなかったから、という理由で3倍出す金の使い方をする輩はそういまい。

「そうだなー。とりあえず、ダッツ買うか」

「一生分以上買えるぞ」

「そんなにいらね。こないだお前に食われた分と、ひーらぎに食われた分」

自分の家の冷蔵庫でありながら、何故か(問うまでもなく)消えていく中身。
時折置かれていた紙を見ると、茜と友人のヒイラギシンジは何やら人の家の冷蔵庫を使っては、好きなものをお互いに勧めあっているらしい。

「なんだよー。もっとでっかいのねえのかよー」

「ライターどこやったっけな……」

言われて茜は呆れたような、からかうような、同情するような半眼で明後日の方向に呟いた。
「フィクサーも、ほんと無駄金払ってるよ」

ライターを探しているニキの横で、ポケットから黒いライターを取り出した。
既に信号は途絶えているが、茜カスタムの手が入ったそれはライターとしての機能を蘇らせている。
それをニキに投げようとして、茜が口角を持ち上げた。
彼の口元の煙草に手を伸ばし、奪うと自分が咥えて火を着けた。
にやりと笑う茜にニキは一瞥をくれて、いつものことだと気に止めず、新たな煙草を手にとって――

茜の咥えた煙草の先で火を着けた。

煙草の代理抗争オルタナティブキス

不意打ちに停止していた茜の時間が流れだす。
その時には既にニキはテレビの方に顔を向けてしまっている。

悔しくなって茜はワインを手酌で汲んで、グラスを一杯一気に空にした。
(……新しいワークステーションを組もう)
せめてもの仕返しに、臨時収入を減らしてやる計画を立てながら、
「ナイツコルスばりに何か埋め込んでやろうか……」
そうしたら、こんなに振り回されずにこっちの言いなりにできるので、それはそれで楽しそうであったので、本人にそのまま聞いてみた。
「どうする? オレがお前の頭弄ってたら」

舞台で命令を待ち微動だにせずに立ち続けていた同じ顔のメイドの姿を思い出す。

対してニキの返答はシンプルだ。
「そんなん、もうわかんねんだから、どーでもいいんじゃねえの?」

ああ、と茜が納得する。
納得した答えをそのまま伝えるのも悔しかったので、事実を告げた。
「だからフィクサー、お前のこと嫌いなんだよ。そういう単純なところが」

(オレは好きだけどな)

「いや、でもやれば出来ると思うぞ? スペックは低くねえんだから」
駄目な子を褒めるような茜の言葉をニキは既に聞いていない。

よし、と茜が一人頷いて、リモコンでテレビを消した。
ニキの不満げな目に満足気な茜が言う。
「せっかく大金持ちになったんだから、何か旨いもん食いに行くのがセオリーだろ」

「……いまから?」

嫌だと顔だけで言うニキに、茜は煙草の煙を吐きかけ、にっ、と笑う。
「おうよ。命短し旨いもん食え若者よ」

「……行けば?」

動く気のないニキに、茜はとりあえず頭突きをした。

New Device
This story written by Xacra from “Fairy the Cage
For Artemisia Absinthium, and thanks.
BGM Linkin Park “New Divide”.