GHOST

スコープを覗く、片目を閉じれば円が世界を遮断する。
仕事帰りに飲み明かしても、明日の仕事に響くのを恐れてそろそろ解散に時計を眺める、そんな時刻。
高級ホテルの一室を、空きビルの一室のひび割れた窓の間から垣間見る。

約300m先のプライベート。

サイトの中に標的を探す。7階の角部屋。高そうな部屋――それだけを安物のプラスチックのような目は感想に思う。その部屋を一晩借りるにどれだけのドル札とそれなりのステータスが必要なのかということに興味もなく、不用心に開けられたカーテンの向こうで酒瓶を傾ける、スーツを寛げた男性を眺める。指先はまだトリガーガードの上に。それがどこの誰かということではなく、標的かどうかだけを確認する。

換気の止まった室内の淀んだ湿度と室温にじっとりと汗が頬を伝っていく。

それらは外の世界の出来事だ。照準の外の世界はもはや知覚の外にある。

温度も呼吸も聴覚も嗅覚も全てが外にある。視覚だけが目の前にある。

標的の頭を中心に世界の。指先がトリガーへと伸びる。
指を曲げれば鉛弾が約300mの隔たりをゼロにする。

こちらと言えば微かな衝撃に肩を叩かれるだけだ。

何の前触れもなく弾かれたように振り返った先に見えた、素人にも上等だと知れるオートクチュールのスーツ、絹糸を束ねたような髪色、男か女か判断しにくい長身の人物。

だが銃弾は300m先でなく、目の前で穿たれた。

彼(彼女?)が持つベレッタが硝煙を薄っすら吐き出している。火薬の匂い、それと本人が着けている香水なのか甘い匂い。
「鼠がいると聞いて来てみれば、とんだ野良猫だな」

声を聞いても彼なのか彼女なのかわかりにくい声。
ただしその整った顔の無表情から吐き出されているのはありありとした不快感。

片膝を突き、ライフルを構えたまま、狙撃手は不意の襲撃者を見上げる。
「よー、フローレンス」

その呼び方に、襲撃者の整った眉が持ち上がる。
「その名前を呼ぶなと何度も言っているだろう」

「はいはい、フィクサーサン」

コンクリートに撃ち込まれた鉛弾を吐き出したベレッタはフローレンス――フィクサーの手の中だ。彼の立っている位置と今、狙撃手が腰を下ろしていた位置からして、確実に殺る気はそれほどなかっただろうが、それでも当てる気はあったようだ。
「その体勢から避けられるとは思わなかったぞ」

「前にいちどあったからな」
それは長い黒髪を垂らした日本人サラリーマンのビニール傘での一撃であったけれど。
――あれは避けきれなかった。

「で、なに?おれ忙しーんだけど」

「その忙しさを暇にしてやろうと思ってな。ニキ、貴様が今狙っている男は我々の組織と懇意にしている。今、そのパイプを失うことは少々惜しい。最も次の選挙で落選すれば用はない程度だがな」

「……だから?」

「その依頼はいくらで受けた?倍を出すから手を引けと言っている」

「ほんとおまえセレブだな」

呆れ混じりに思ったことをそのまま言っただけだったのだが、どうにも相性が悪いようでフィクサーが苛立ちに銃口をニキに向け直す。

「嫌なここでそれなりに怪我をしてもらうことになるが、損得を考える頭があるならとっとと失せろ」

「何イライラしてんだよ。2日目かよ」

と、ニキは肩にかけていたライフルの位置を直す。悪くない話だということは彼も理解している。ただゲームの邪魔をされたことは面白くない。その程度の八つ当たりだったのだが、
「……やめた」
突如、フィクサーがボルサリーノハットを脱ぎ、外から差し込んでくる少ない光量の中でも整っている事がわかる顔に笑みを貼り付ける。
「貴様には一度、とことん痛い目を見せておいた方が良さそうだ」
それは社交的な笑みでも、恋人や妹に見せる笑みでもなく、敵に見せる凍りついた笑みだ。

(……)

今更にして、ニキは地雷を踏んだことに気がついた。
『ニキさんも少しはデリカシーを覚えなさい!』
いつか、今と似たような状況でフィクサーの横に現れた精神科医なのか内科医なのか外科医なのか――とにかく医者に言われたセリフを思い出す。思い出したところで対応を取ろうとは思わないのだが(ああ、こういうことか)と今更ながら理解はした。

フィクサーの腕がオーケストラの指揮者のように舞い上がる。絹の白手袋に挟まっているのは指揮棒ではなくスタンダードな致死力を誇るベレッタM92。吐き出す弾は9x19mmパラベラム弾。当たれば当然肉が散る。銃口の先にいるのは自分。銃声はサイレンサーが抱き込んだ。心臓へ3発。冷徹な射撃が狙った正確無比な銃弾の衝撃に、ニキの体が床に落ちた。最も周囲への手前、殺す気はなかったので致命傷は避けている。とは言え、すぐに病院に担ぎ込めば――の範囲だが。フィクサーが携帯を手に取ったところで、
「いってぇ!」
ニキが跳ね起きた。

さすがにその反応に驚いたフィクサーが目を瞬いた。

倒れた拍子に後頭部を床にぶつけたらしくニキは頭をさすりながら立ち上がる。
「お前ほんとオンオフ違い過ぎんだろ。リチャードもマオもギャップ萌えとかいうやつなんかよ」

フィクサーには意味不明なことをニキが言いながら立ち上がる。

「貴様、どう避けた……」
歯ぎしりの間から漏らすような声でフィクサーが問うた。

「よけてねぇーよ、ひーらぎじゃあるまいし。あたったよ。いてぇーんですけど?
お前のことだからセオリーどーりに心臓か脳天ねらうだろうとおもっただけだよ。まじ痛い」

「――とっさにライフルを盾にしたというのか」

「弁償しろよな。気にーってんだからこれ。AIのL96」

「知るか。身から出た錆だろう」
ふん、とフィクサーが尊大に鼻で笑う。
「思っていたより楽しめそうだ」

暗い愉悦を覗かせるフィクサーに、ニキはただつまらなさそうな視線を投げる。

「そーゆーのはリチャードとかマオに頼めよ」

びしっ、そんな音を立ててニキが踏んだ地雷が音を立てた。正確にはフィクサーの関節の音だ。一瞬で伸びた彼の腕はニキのパーカーの襟首を掴む。
「そういえば、マオとメールアドレスを交換した件について、まだ話し合っていなかったな」

「これは話し合いじゃねぇーと思うぞ?」
襟首を掴まれて、片手に銃を持った相手に話し合いだと言われても、これは間違うことなくただの恫喝。フィクサーの方が背が高いので、上から覗きこまれると中々に圧迫感を感じつつ――
と、間近でニキがフィクサーの顔を覗きこんだ。
「……何だ」
「――おまえ、睫毛なげぇーな」

「な、にを」
言っているのか、という間にニキが襟首を掴んでいたフィクサーの手をすり抜けた。猫の着地のように屈む。床に放り出していた自分の鞄を掴む。ギターケースをそのまま振り上げる。下からの飛来物にフィクサーが後退したことにより、距離が開いた。

鞄を肩に担ぎ、ニキが首を傾ける。
おまえ、よくみると美人だな

外を通りかかったヘリのサーチライトが差し込んで開いた距離が実際より長く思えた。
ヘリの音で何を言ったのかは聞き取れなかった。情報としては理解している、けれど意図が読み取れない。

「なんだと?」
フィクサーの問いに初めから聞いていないニキは肩を竦め――その動作の続きで尻ポケットに入れていたグロッグを引き抜いて、フィクサーへと銃口を向ける。靴底の減るステップでフィクサーは反射的に左へと飛んだ。追って、床に穴が開く。サイレンサーはついていなかった。3発の銃声と同時、床を蹴るスニーカーの音。サイドに避けたフィクサーが今立っていた場所。蝶番が外れて横に扉が立てかけられている出口へとニキが駆け抜けていったその一瞬、鳶色と緑色がかち合った。ただそれだけだというのにフィクサーはニキに笑われたような錯覚を覚える。そんなことはない。ただニキはフィクサーを見ただけだ。それだけのことだった。そのままニキを追って、フィクサーも廊下へと足を踏み出したそうとしたところで踏みとどまる。視界を独占する向けられた銃口。瞬間で退く。
微かな風と、弾けるコンクリート、降っていく破片。

躊躇などなく弾かれる引き金。

――ニキくんは、そんな人じゃないって。

過去から声が聞こえた。

「……何がどう違うと言うんだ?」
口の端だけを釣り上げる。言い換えるなら笑みという他に形容しようのない表情で、ただそこに柔らかな感情は髪の毛一本程もなく、フィクサーこと米国D-LIZARDのボスは笑う。
勘違いしている。
いや、忘れているだけだ。彼らは思い出す機会が少ないから。
誰もが彼もがどう生きてきたのか、その様を。

(あ~まじ痛って)
とりあえず廊下を駆け抜けて、適当な場所に蹲ったままニキは舌打ちをした。至近距離の銃弾を銃身越しに受けたことに対する不満。心臓に穴が開くことの代償とするのなら、それは存分に安すぎたが、受け身を取り損ねてぶつけた後頭部と合わせて痛い。

場所は同廃ビルの屋上、崩れかけた給水塔の横。とりあえずどうしたものか。
煙草を引きずりだして、少し折れたそれを咥える。

(あいつのことだから引くだろ)
余計な事に首を突っ込む質ではない。ビジネスライクに金銭で解決したがる性質だ。今回の設け話は不意に飛んだがまあいいや、と火を点ける。一瞬だけ使い捨てライターの炎がニキの赤い髪をより赤く照らして消えた。

残るのは煙草の先の小さな炎。辺りを照らすには頼りなさすぎる。

音楽端末を引っ張りだし、首にかけていたヘッドホンを耳に被せる。一見で判断すればどこかのアマチュアバンド――ロックかパンクか、どちらにしても半社会的な――のメンバーのような様。ギターケースの中身は楽器ではなく許可証なしに持ち歩いている危険物という点を除けば。

音楽端末を指で叩く。
起きているだろうか。返答は数秒もしないで返ってきた。
ヘッドホンのスピーカーを利用した、ノイズのような短い振動。ベースの低音に似ている。
ニキが指で端末を叩く。
何も知らなければ聴いている音楽のリズムを指で取っているような動作。
ノイズのような振動が返る。――何しくじった?
振動の長短を組み合わせたモールス信号のようでいて、異なったロジックで構成されている茜とニキの共通言語。

――フィクサーいた。
――あー、なんかぽいなー。でも部隊じゃねえよ。護衛はいるけど。
――あの格好だし。ひとりで歩かないだろ、あいつ。
――で?
――移動した?
――してない。
――なんで。
――知らん。

「知っとけよ」
ニキが肉声でぼやいた。

どうするかな。段差に腰かけたまま、ニキは膝に頬杖をついた。吐き出した煙。風に煽られて一瞬で溶けた。

――ニキ、知ってるか?心ってシステムにはPCじゃハッキングできないんだぜ。近くにそれっぽいリムジンはあるけど、移動してない。何した?
――なにも。
――なんかしたんだよ。だから言ったんだ。予備バッテリー持ってけーって。言うこと聞けよてめーは。あと傘も持ってけよな。帰り雨だぞー?

文字通りノイズと化した茜の愚痴っぽいノイズ信号を聞き流し、ニキはとんとん、と煙草の灰を叩いて落とす。それは信号ではなかったが茜には意味のない動作だと知りつつも、聞こえた気がした。聞いていなかった時に返される生返事。

暫く待っていればフィクサーのことだ。イライラしたまま移動するだろう。
スケジュールが分刻みで埋まっているセレブだ。

音楽端末の電池残量を見やる。まだ暫くは大丈夫そうだが予備を持ってこなかったので万全とはいえない。バッテリーを優先するのに電源を切ろうかと思ったが、やめた。普段なら煩いだけなので可能な限り切っているか、聞こえる音量で音楽を流している方が多いのだが、勘に従ってそのままポケットに突っ込んだ。
なるほど、不便だ、と今更にして思う。
暗がりで音が聞こえないということは。
茜作の補聴器を仕込んだヘッドホンと音楽端末。
バッテリーの残量からしてタイムリミットは15分。
気のせいならそれでいい。
だが。
その手の予感は大概において外れない。

「上に逃げる、というのは手としては悪くない」

声が聞こえた。中性的なアルトだが、普段より低めのフィクサーの声。まじまじと聞いてみると不思議な気分だ。

「暇なのかよ」
ニキが呟く。補聴器は無条件に拾うので、自分の声への違和感に顔を少しだけ顰めた。

「ただ所詮は……、と言った処か。やることがザルだな」

(あー。距離わかんね)
音声というよくもこうも不確定なものに、よくも人は慣れているものだ、と心の隅で感心しながらニキはグロッグの残弾数を計算する(17-3)。こちらの予備はマガジンが1つ(+17)――31発。ライフルは先のダメージを考えると除外しておいた方が良いだろうか。暴発もジャムも厄介であるし、そもそも近距離では鉄パイプにしかならない。何より本格的な訓練を受けた輩との近距離戦闘はしたくない。

(ニンジャでも降ってこねーかなー)
とは言え、茜の話を思い出すに、通り過ぎる際に人助けをする善意の台風は現在国外にいないらしいから幸運は降ってこない。

緊張感なくその場に座ったまま、煙草を吸いながら、ニキがぼやく。
「忙しくねぇーのかよ」

「仕掛けてきたのは貴様だろう。
わざわざお遊びにのってやっているんだ。感謝してはどうだ」

フィクサーの声は楽しそうにニキには聞こえた(まだ本気じゃねぇな?)が、
――何したんだよ。わりとマジじゃん?
茜がうんざりを装った、うきうきした声をノイズに変換して来た。
盗聴器で音は拾っているらしい。
なるほど、とニキは思う。声から感情を聞き取るのは茜の方が上手い。
煙草から口を離す。短くなった煙草を捨てる。
(まじなのかー)
ああ、でも――と思う。
折角だから、蜥蜴に悪戯をしてみるのも面白いかもしれない。

気配。誰しもそれを感じるというのに日常生活では個人差が激しいそれ。
彼にとっては手に取るようにわかるそれ。
皮膚を撫でられた時のように、それは確かな感覚器官の一つ。確かなものとして幼少の頃からあったもの。

気配を感知する能力。

フィクサーは確かな足取りで、ゆったりとした歩速で暗がりを進む。
彼にしてみればニキの居場所など手に取るようにわかる事だ。
かくれんぼになりもしない。
が、フィクサーは足を止めた。

屋上へ上がる階段、外と内側を隔てていた扉を失った平行四辺形なだけの外への入り口。
先にニキが持っていた武器を思い返すと、このコンクリートの壁をぶちぬける火力はありそうになかった。一応の安全圏としてフィクサーは狙われない位置を計算してそこに立つ。

ふと、思い出す。
関わりは深くない同業者が言っていた戯言を。
国籍を問わず様々な組織に足を突っ込むフリーのスナイパー。従軍や、訓練を受けた経歴がない故に――書類上に存在しない――腕利きらしい狙撃手の話。噂ではCIA職員による大統領襲撃にも関与していたらしい、と。 噂とは独り歩きするもの。故に真偽の程などわかりもしないし興味もなかった。ただ聞き流したそれを記憶していた理由。

「GHOST」

記された書類がないということは存在しない筈。
故に、その同業者は皮肉を込めて「まるで幽霊みたいだろう」と言ったのだ。

本人の知らぬ呼び名。
それを思い出してみると意外なようで、意外でもないようで、ただ奇妙な納得はあった。
ふらふらと彷徨って呼んでもいないのに余計な場面に現れる――確かに似合いだ、と。
「ならば幽霊退治と洒落こもう。英国人が幽霊ごときに怯む道理はないからな」

先の銃弾を受けた個所を確認して排莢をしてみたが、動作に違和感はなかった。
一度分解してみないと細かいところはわからないが、一旦は使えるか、とニキは先の判断を覆す。

標的のいるビルが見えた。やはり先程の位置が狙いやすかったなと思う。
メリット:視界は外に出たことにより中よりは光量が増して良好になっている。
デメリット:外の方が音が多い。必要な音と不必要な音を区別するのを得意としないニキとしては今の音が必要なものだったか不必要なものだったか――それは音なのかノイズなのか。その判断がしにくい。

聞こえた音に首を巡らせる。

そこに人影は見えなかった。

軽い風。ニキは半身振り返り、上体を傾ける。見えた白――上質な白手袋/繰り出される拳。避けた。拳を引き戻すついでにフィクサーが膝蹴りを放つ。ニキが片肘で受ける。バランスを崩さずにフィクサーの次の拳を下腕で流したニキが掴もうとしたところを涼しい顔でフィクサーが更に流して逆にニキを捕まえにかかる。靴底が焦げ付くステップでニキは後退する。フィクサーの追い打ち・回し蹴りがニキの脇腹にヒットした。ライフルが屋上のコンクリートの上を転がっていく。
「弾より蹴りのがやべぇってまじデスレコードまじ」
同じく転がされたニキが手すりに当った勢いにヒュ、と呼吸音を漏らしながら、呻いた。

それを聞いて、フィクサーは片方の眉だけを尊大に持ち上げる。
「これでも手加減しているんだ。手加減なしなら貴様の内臓など軽く破裂する。
それと私の異名のことを言っているならレコードではなく、カウンターだ」ぞんざいな訂正にニキが咳きこんでから、言う。
「カウンターよりレコードのがけっけーじゃん」

そんな個人の感想はどうでも良いと、フィクサーが無表情にニキへと歩み寄る。
空いた距離は数メートル。ニキの後ろは崩れかけた手すりと夜景。
内臓を破裂させる気はなかったが、それでも骨の2,3本は貰うつもりだった。
フィクサーはわざとらしく拳を鳴らし、犬歯を見せて笑う。
「折角だ。この際――きっちり貴様の体に説明してやろう。何、殺しはしないさ。楽しめなくなるんでな」

「へんたーい」
ニキが平坦に茶化した。

(――折れた。)
肋骨。触った感触でそう判断する。ぐにゃりとした指先への返触と熱源。吐きだした息も熱いような気がした。先日、傘で折られた足のギブスが外れたばかりだというのに。

今ので転がって行ったライフルを一瞥する。取りに行くにはやや遠い。それより先にフィクサーがこちらに手を伸ばす方が早い。出口はフィクサーの後ろ。――首が動く範囲で、視界からフィクサーが消えない範囲で、振り返って背後を確認する。夜景。
ビル風が吹き上がる。紙――おそらくは新聞紙――がその勢いに乗って舞い上がる。

「余所見をしている暇があるとは、余裕だな」

フィクサーが言った。
音もなく伸びてくる白手袋に、懐に入れていたグロッグをニキが腰を上げながら構える。フィクサーの手がグロッグを通り過ぎて、ニキの腕を掴んだ。引き金が引かれるより早く、ちょっとした関節術と力づくでその銃口の方向をフィクサーが変えさせる。曲げられる肘と共にニキの方へ向け直された銃口。ニキの抵抗もあり、銃身で自ら肩を叩くような位置で弾かれた鉛は直線に憧れる曲線を描いて夜景に消えていく。

耳元での銃音にニキが顔を顰めた。切っておけば良かったと思うが、思いの他大音量での銃声を聞いてしまったのは彼ではなく、彼につけた盗聴器を通して増幅させた音量をヘッドホンで聞いていた茜の方だ。だがそんなことは誰も知らない。
フィクサーが固定した左手は動かせない。腿に当たる手すり、その後ろにある浮遊感。

「このまま突き落としてやろうか」

そう言うフィクサーにニキが興味なさそうに、ただ今の銃声に起因する耳鳴りに舌打ちをしたい気持ちのまま、半分以上身体は手すりの向こう側・腕はフィクサーが掴んでいる・片足は浮いた状態――生殺与奪権を握られたままニキが言う。
「やれば?」

フィクサーが苛立つ。それがただの負け惜しみや強がりであるならそうも苛立たない。その言葉にその言葉以上の感情が含まれていないことに苛立った。それでは支配できない。蹂躙できない。制圧できない。利用できない。自由にできない。操れない。そもそもこれがチェスだったとして、ルールに従っているのは自分だけなのだ。初めからくだらない、つり合いのとれないゲームとも呼べぬ状態。

その作り物の粗悪なプラスチックのような目に映るのは奥歯を噛んだ自分の顔だ。

「貴様がどの組織にも属していないのがよくわかる」
苛立ちの中にあった一抹の違う感情を吐き捨てるように、フィクサー。
属していない、のではなく単純にこんな輩は飼っていられない。コストとリスクだけかかる。利益を生まない経費など、幽霊どころか疫病神か害虫だ。

このまま落としてやろう、そう思うと同時、左腕に一拍ずつ冷たさ→無感覚→熱と――痛みを感じた。
フィクサーが掴んでいるのはニキの左腕。ニキの右手がフィクサーの左腕をナイフを持って通り抜けた。その先にあるのはフィクサーの首。頸動脈。
銀色の直線にフィクサーは右に引くと同時に、押した。

そして、中途半端に屋上に残っていた体重を夜景に落として、ニキがフィクサーの視界から自由落下の法則に従って消える瞬間、少しだけ驚いたような顔で、ニキが口を動かした。
Пока, Флоре́нтийя
最後に、何度言ってもそう呼ばれたことに対して苛立ちの視線をフィクサーが送ったが、それすら鼻で笑われたように見えた。

切られた袖がその下で口を開けた肉からの出血をじわりと吸っている。

英国紳士も舌打ちをするが、整った顔立ちは歪めても別の芸術品になりそうだ。
そこで携帯電話が震えた。通話にして耳に当てる。
「なんだ」
『ボス、例の議員に少々問題が』
「……どうした――」
と、今自分が立っている位置からニキが落ちて行った方向の夜景を眺めて、改めてフィクサーは舌打ちをした。 自分が立っているのは先にニキが議員を狙っていた窓のあった方向と同じ方向。先にあるのは高さを変えた標的(議員)のいるホテルだ。先ほど自分の力でニキの銃弾の方向を変えさせたと思ったが、それが計算なのか偶然なのか何なのか。確認しようにも既に相手は退席済みだ。
「死んだか」
『いえ。無事です。が――、次の選挙は無理かもしれません』
部下の報告を聞きながら、カツカツと踵を鳴らしてフィクサーは前へ出る。

手すりから見た下に赤い髪の男の死体は見当たらなかった。
ただ下に、非常階段がある。そこから逃げたことは明白で、無為に罵りたい気持ちを噛み砕きながら、フィクサーが携帯に告げる。
「一旦戻る。車を回せ」

処理するどころか、さらに溜まったフラストレーションを抱いてフィクサーは踵を返した。

苛立ち高らかに靴音が闇に消え、代わりに遠くから警察車両のサイレンが聞こえる。

月のない夜、月も嫉妬する光を抱く人間の夜にあっても、屋上に放置されたライフルを照らす明かりは遠すぎた。

そして――
高級ホテルで娼婦と優雅な一時を過ごしていた上院議員の一人が窓ガラスを割って飛び込んだ銃弾に心底胆を潰して部屋を逃げ出した。それだけであれば何ら問題はなかったともいえるのだが、誰もが高機能なカメラ機能のついた携帯電話を持っている時代の不運。

プライバシーはもはや死んだと誰かがネットで歌う時代。

短絡的なSNS経路に流出したストリーキング姿は例に漏れなくネット上で炎上し、マスコミを巻き込んで面白おかしく脚色されたスキャンダルへと発展し消費されていく。

GHOST that suicidal cat written by Xacra.
BGM 矢野絢子「ろくでなしって呼んで下さい。」
2014/08/02

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