茜ちゃんの懊悩

何でもない平日に何でもない日常に埋没する街の片隅で、茜は不満に頬を赤らめたまま、行きつけのカフェの奥の席でカフェラテを横に置き、ラップトップにその苛立ちを叩きつけていた。
傍から見ればノマドワーカーが何やら仕事に追われているように見えなくもない。
平日の午後。
客もまばらな店内には他にも似たような姿がある。

苛立ちの原因はとても日常的なものだった。

酷く単純で、誰もが悩んだことがあるような、そんなありふれたテーマだった。
茜の仕事がら頭から煙を出す程悩むことといえば、仕事に関することが多い。頭脳労働者である茜の仕事はハッカーであり、脳細胞と指先とモニターを流れていく文字列に対する動体視力とを駆使して、企業や政治家や知識人や頼まれればその辺りで転がっているだけに見える浮浪者であっても、彼らの隠したものを探し当てる。
大半は趣味の延長であるのだが、故にハッカー同士の戦いになると疲弊する。
彼らのこだわりは精密機械じみていて、そこに人間のユーモアとブラックジョークを含んでいる。
長時間チェスをやっているようなものだ。
相手の手を読み、それに布石を置き、罠をかけ誘導し、相手のロジックキングを打ち破る。
彼らハッカーの中でも栄光として語られる、軍事衛星へのハッキングや国防総省への潜入を成し遂げる腕を持っている茜の全力を持ってしても思い通りに行かないのが、いわゆる『アナログ』である。

暇つぶしにチラリと目をやったサイトの記事には自分が送ったメールに対する返事から恋人がどのように自分を思っているのか、というくだらないものだった。
ただ、それが返事が返ってくるのが前提である、という点が茜にとって面白くない。

「返ってくるだけいいじゃねぇか」

思わず吐き捨て、WEBサイトにControlとWを同時押す。

ニキに送ったメールが返ってきたことはあっただろうか、そんなレベルで考えこむ。
そもそもこの時代にあってして、あの男はアナログな節がある。
携帯電話を持ち歩かせるのも一苦労であるし、未だ旧式の音楽端末を使っている。
世の中、スマホにBluetoothにタッチパネルが前提であるというのに。
そんな相手にメールを送ったところで返ってきたことはあっただろうか。
数えるくらいはあったような気がしても、明確に思い出せない。
今度返ってきたらきっちりクラウドに保存しておこうと思う。
どうせくだらない内容だろうが、そんなことはコレクションに関係がない。
他人にとってどれだけ意味がないものでも、コレクターにとっては至上の価値を誇るものなのだ。

現に今もPCから送ったメールに返事はない。
カフェにいるので、一緒に飯でもどうだと友好的な内容なのにも関わらず。
ニキに着けた盗聴器を作動させてみるも、聞こえたのはノイズだけだ。今回は潰されたらしい。

(次はもっと違うところに着けるか……でも今回は簡単過ぎたから……そろそろ体内に仕込んで――でも表面からちょっと下なら怪我すりゃ終わりだし、だからってもっと奥に仕込むにはオレの腕じゃな……あー、ネットとか脳みそに直結してぇ)

舌打ちをひとつして、茜はカフェラテを喉に流し込んだ。
キーボードを茜の指が滑らかに高速で叩く。
開いたウインドウに映しだされるのは自分(ニキ)の住むアパートの室内だ。
角度を変えて見たところで、目的の人影は見つからなかった。
出かけているのか。となると街中の監視カメラにハッキングをするには今持っているラップトップでは少々心もとない。
どこにいるか考えるものの、相手の出没範囲は思いの外広い。
徒歩ならまだしもバイクであったなら尚の事だ。
ふらりと出かけてそのまま数日帰ってこないこともざらにある。
あまりに続くようなら何かあったと動くのだが、昨日今日の今であれば動くのは少々――ミゲルおにいちゃんにすら過保護だと言われてしまうかもしれない。
心配とは違う。
自分の預かり知らぬところで何かが起きるのが気に入らない。
意外だと言われるかもしれないが、正直死んだとしてもそれはいい。
ただそこを自分が観ていられないのが嫌なのだ。
ずっとずっとリアルタイムに観て、録画して、毎週毎週楽しみにしていたドラマの最終回だけを見逃すような失態は冒したくない。

恋する乙女の暴走とは一味違う。

公言して憚らないが茜はニキのストーカーである。

半分以上は見せて貰っている感がある。
だからもし彼が本気で拒絶してきたのなら、もう観てもいられないかもしれない。
それを不安と呼ぶなら確かに不安であったものの、正常な男女関係であるかと言えば別の話。

自分が執着している程、向こうは自分に執着していないのではないのか、というものを不安と呼んでよいものか。
それは単に現実逃避というやつではなかろうか。そもそも全く興味がないのではなかろうか。
好きとか嫌いとかそういう以前にまずどう認識されているのかを確かめたことがない。
まるきり独り善がり――独り善がることもできていないのではないか。
だったら初めからただのストーカーに徹していればよかったのではないか。
そもそも勢い余って突撃していたものの、相手が自分を見てくるとは全く想定していなかったのだ。
ただ観ていれば満足だったのに、不意打ちで向こうがこちらに気がついた。
晴天の霹靂とはまさにこの事だ。
今でも時折自分の勘違いであったのではないかと思ってしまう。まさに今もそうだった。
ただの勘違いであって、向こうは自分を見ていなかったのではないか。
アイドルのコンサートに行ったファンが、自分の方向にアーティストが顔を向けたのを『目が合った』と思い込むように。

酷く不毛なこの関係を恋と呼んでよいものか。

自分が惚れていることは覆せない事実である。
巷の監視カメラをザッピングしていて一瞬映ったそれに釘付けになった。
それはまさに一目惚れ。
恋だ愛だ、そんなものを吹き飛ばした霹靂。
安いカメラのレンズのような緑色の目も、染めているのかと思った鮮やかな赤毛も、幾つもある傷跡と一緒に不健康そうな肌を這う文様タトゥーも。
それらに目と心を奪われた。これを恋と呼ぶものか。

いつか向こうが飽きたなら。

徹底的に拒絶されてしまったなら、観てもいられなくなるかもしれない。

そう考えるとストーカーの心は哀しみに沈んだ。

それは乾いた寂寥感だったかもしれない。
だとしても、諦めるには近くに来過ぎてしまった。

見渡したカフェの中、客足はまばらだった。
時計を見ると二時間程席にいる。
カップの底に張り付いたカフェラテを見て、追加の注文をウエイトレスに頼む。
もう暫くいても冷たい視線にならないようにチップを多めに渡せば、パートタイムジョブの女子高生はそれで笑顔になる。
ニキのボロアパートから歩くと距離があるが、インラインスケートでラップトップを背負って現れる茜は常連であるし、Wi-Fiもあるこのカフェは近所のノマドが集いやすくもあるので、そう冷たい目をされることはないのだが。

上着のポケットに手を入れたら予想外の感触があった。
角と平面。
引っ張り出せばそれはニキの吸っている煙草の箱だった。
腹いせに置きっぱなしだった彼の上着を引っ掛けてきたのだ。
中身は数本減っていただけだったので少しばかり溜飲を下げる。
纏め買いをする習慣を持たない彼は今頃新しく買う羽目になっているはずだ。
机の端に置かれていた、店名が入ったマッチに火を着けて、火先を咥えた煙草の先に近づけ、息を吸う。
火は煙草に引火した。
煙は崩れていく糸のように立ち上がり、天井のファンに掻き回されて消えていく。
頭の後ろに手を組んで、背もたれに思い切り寄りかかる様は、傍から見れば仕事に悩んでいるように見えたが、恋愛に悩んでいるようには見えなかった。
だから遠くの席のノマドワーカーが憐憫の眼差しを向けた事に、茜は気づかない。

それから目を閉じる。
喉を焼く煙。辛い。キツいタールとニコチンと。
いつも彼が纏う匂い。ここに血と消毒液を混ぜればきっと似せた匂いができる。
後は硝煙と――匂いは記憶を呼び覚ます。昨日の夜、ふらりと出かけていったニキは朝にはまだ帰っていなかった。いつものことだ。自分の立場を恋人と言っていいのか、悪いのか。家族でもないのに束縛する理由はなかった。彼がもし、どこかで他の女を抱いていたとしてもそこに嫉妬を感じない。

『人は気づかない内に誰かと家族になっているものなんですよ』

何の話をしていた時の言葉だったか。

知り合いの精神科医の言葉が不意に蘇る。自分はあいつと家族になれるのだろうか。それは酷く儚い夢のように感じられた。まるきり夢物語のようで現実感がない。自分はどうしようもなくしがみつけるのに、向こうはこちらにしがみついてくれるだろうか。

薄っすら目を開く。天井でくるくる、くるくるとファンが回って、茜が立ち上らせる煙草の煙を撹拌させている。

口の先で溜まっていく灰を落として火傷をする前に、それを灰皿へと叩き落とした。灰皿に落ちた灰は何やら自分に似ている様に思えて苦笑いが浮かんだ。

所詮は独りで踊っているに過ぎない。それに相手を求めるのが間違っているのだ。

乾いた達観は乾いた笑みを乾いた唇に煙草のフィルターを貼り付けた。

剥がす時に持っていかれた唇に少しばかりの痛みと少しばかりの血の味。

精神科医なら何というのだろう、と思いだした言葉に繋げて、ぱっと見はなよっちい頼りがいのなさそうな金髪碧眼の彼の職業と絡めて考える。
口にすることはないだろうが、恐らく職業柄、職業病で関わりのある人間のことを多少なりとも診断している筈だ。そんな専門家にしてみれば、一体どのように自分は、彼はどのように写っているのか。

(……ろくなもんでなさそうだ)

茜はPCやネットワークに関してはプロフェッショナルであるが、アナログに関しては素人である。
故にその方面に関しての知識はドラマで見た程度で、二番煎じになりもしない。
故にそんな程度の結論を出す。
WEBサイトを検索してある程度の症状を当てはめて、カテゴリーの名前を見つけることは茜にもできる。
けれどそれで何になるのだろう。
相手の経歴を調べることもできる。
だが、ネットに転がっている『真実』の便りなさを茜は知っている。
真実は、作ることができる。
真実よりも真実らしい嘘を。
事実、ニキに持たせている身分証は茜が偽装したものだ。
そこに真実を混ぜてしまわないように、そして自然に見せる為に、ある程度は茜も調べたことがあるから知ってはいる。
文字の羅列としては。ただそれだけだ。

以前、寝言で、寝ぼけたニキが掴んだ茜の腕に呟いたのは茜の名前ではなかった。

(マリア)

名は茜も知っている。
ニキのタトゥーを彫ったアーティストの名前だ。
その関係が彫師と客だけの関係でないことも知っている。
流れるような金髪に夏の空のような瞳をした、豊満なボディライン――の映像を脳裏に描き、茜はちらりと己の体を見下ろして、今の考えを忘れる。

名前の通り、彼にとっては神様の類なのかもしれない。
その間に入れる等とは思いもしなかった。
ふたりでいる間に何があったのかを茜は知らない。
正しくはそこまで調べきれなかった。
情報があれば調べることは可能だと茜は自意識過剰ではなく事実として思っている。
だが、情報がなければ調べることは不可能だ。
茜が得意とする世界はデジタルであって、アナログではない。
デジタルな画像がWEB上にあれば、それを探すことに難はない。
もし暗号化されていたら手間と時間はかかるかもしれないが、できないことはない。

だが。

どこかの部屋の片隅に落ちている写真がフィルムアナログであったなら、探すことはできない。
0と1に変換されていない情報を探すのは茜の得意分野からかけ離れている。

バカバカしいかもしれないが、それが限界だった。

そう、酷くバカバカしい。

茜の指先で煙草は吸われることなくただ灰に変換されて崩れて落ちた。

フィルターまで燃え出したそれを灰皿に擦りつけて、ウエイトレスが多めのチップのお礼に少し増量して渡してくれたカフェラテを笑顔で受け取って口付ける。
カフェラテの熱は思いの他、唇に染みた。
唇を舐める。血の味。この恋は血の味に似ている、くだらない映画のキャッチコピーのような文言を思いついた。

(いっそ、リチャード先生にカウンセリングでもさせてみようか――)そう思ってみたものの、まあ無駄だろうな、と続けて呟いた。

もしもあれが病気であるのなら、本人に治そうという意思がなければどうにもならないし、聞いたことにしか答えないのであればカウンセリングになりもしない。
意味がない。
ただの尋問か質問にしかならない。
そもそもニキは用がなければ病院に行きたがらない。
用があるであろうレベルの怪我であっても行きたがらないので、時折死にたいのかな、と思うこともある。

(ただの自覚なきドMなのかもしれないけどさ)

そう思い変えてみたところで、自分の命に対して何らかの執着がないのはわかっている。
同じように他人に対する命への執着もない。
自分が死ぬかもしれないことと、人が死ぬかもしれないことに対して同じように意味がないのだ。
それは酷く平等で、この上なく社会性を欠いている。他人への共感も皆無だし、さして関心もない。

(もし、あいつが死んだなら)

そこによく見るような悲哀はない。
あるのは背中をぞくりとさせる感覚だ。
それは性的快楽の方に近い。
きっと綺麗だと思うのだ。
彼の人の死体は。どれだけグロ画像となっていても、そう思う自信があった。
そうしたら自分も壊れていくだろうか。そんな些事を放置しても、その夢想はどちらかと言うと甘美だ。

(あいつにオレはどう映ってるんだろう)

何となく次の煙草に火をつける。
完全に煮詰まっている風のまま、茜はラップトップのモニターがブランクになっていることに気がついて、キーをひとつ押した。モニターに写る映像や文字列は先ほどから変化はない。

まるきり全てが無意味だったのなら、自分がいてもいなくても同じであって、そもそも表情通りにただ迷惑なだけなのではなかろうか。
世界の終わりに気づいてしまったかのような暗澹たる面持ちで茜は俯いた。
傍目には致命的なバグに出会ってしまったIT技術者のようだ。
遠くの席のノマドワーカーが見当違いだったが、憐憫の眼差しを送る。
どこかのSEかデザイナーが無理難題を抱えているのだと、彼はそう同情した。

もういっそ、前のようにただのストーカーに戻ろうか。
そっちの方がお互い幸せかもしれない。
自分は観ていられればいいのだし、向こうも迷惑な存在が消えて楽かもしれない。
だってほら、オレを見る時、時々物凄い冷たい、虫でも見るような目で――
決意を込めて顔を上げた茜は口をあんぐり開けて、銜えていた煙草をポロリと落とした。
それは掌に落ちて、
「あっちい!」
悲鳴と共に火種を振り払い、慌てて床に落ちた煙草を拾う。

驚いたような、泣き出しそうな、笑い出しそうな、複雑な表情のまま茜は、
「なっ、なんだよ!」

いつの間にかそこに両手をポケットに突っ込んだまま――茜が着ているので上着はないまま――つまらなさそうにそこに立っているニキに八つ当たりじみた声を投げる。

なんだよ、の言葉にニキは少しだけいつもの無表情に片眉を持ち上げた。
「来いつったくせに」
じゃ、いーか、と踵を返しかけたニキの服の裾を瞬時に掴んで、
「来ると思わなかったんだよ!」
茜はついさっきまでの『この位置』を手放す気持ちを手放した。

公言して憚らないが、茜はニキのストーカーである。

やはりストーカーであるのなら、最前線で観ていたいと思った。

世間的にはこれは間違っているのは間違いないだろうがそれでも。

側に居たいと思うのは事実であるのだから、わかりやすく拒絶されるまで居座り続けてやろうと決意新たに、メニューを広げる顔は笑顔というにはニヤついている。

「なに、ひでぇ顔してんな?」
「うるせえよ。お前程じゃねえよ」
言って、茜は更に追加を頼むべく、元気よくウエイトレスに手を振った。

“Her thinking of him” written by Xacra.
BGM tacica「某鬣犬」
2015/05/06

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